コラム
2019.11.23
「あなたも狙われる、中国のスパイ法の恐るべき実態」
中国反スパイ法の実態
―日本人として知っておくべき独裁を支える中国防諜法の恐るべき内容―
矢野義昭
今年9月3日に中国社会科学院近代史研究所の招きで北京入りした北海道大学の教授が、9月8日、帰国時に空港で工作されるという事件が起こった。同教授は11月15日に釈放され、同日に帰国した。中国外務省報道官は、釈放時の記者会見で、「刑法と反スパイ法に違反した疑いで拘束していた」と発表している。
同教授の刑法上の容疑は国家安全危害罪とされているが、反スパイ法違反との嫌疑も挙げられている。中国当局は2015年以降、スパイ行為に関与したなどとして教授以外にも日本人の男女計13人を拘束し、うち8人に実刑判決を言い渡している。また11月15日現在、中国では9人の邦人が、事実関係が不明確な形で拘束されている(『産経新聞』令和元年11月16日)。
中国の『中華人民共和国反間諜法(以下『反スパイ法』と略称)』とはどのようなものなのか、同法の条文に従い分析することは、日本人が同様の容疑で拘束や逮捕をされないためにも、必要なことであろう。
党独裁下の徹底したスパイ防止体制と全公民・全組織への義務付け
『反スパイ法』は、2014年11月1日の第12回全国人民代表大会常務委員会第11回会議で可決され、同日、国家主席令第16号として公布され、同日付で施行された。
同法の目的は、「スパイ行為を防止、制止、処罰し、国家の安全を保持する」(同法第一条)ことにある。そのスパイ防止のための工作においては、「中央の統一的指導を堅持しつつ、公開工作と秘密工作を相互に結合し、専門工作と群衆工作の路線を相互に結合し、積極防御と法により処罰するとの原則を堅持する」(同法第二条)とされている。
ここで「中央」と述べているのは、「党中央」の意味であり、スパイ防止工作に対する党の絶対指導が、同法の原則の筆頭に挙げられている。反スパイ工作では軍と同様に、「党中央の絶対指導」原則が貫かれている。
軍と公安関係機関は、国内外の敵対勢力に対し、一党独裁支配を力で直接支える「暴力装置」である。党中央は、この両実力組織に対する絶対的な指揮統制権限を維持強化することを、統治原則として最も重視している。
また最高指導者にとっては、中国国内の権力闘争を生き抜くためにも、この両実力組織を掌握することが必須の要件となっている。反スパイ法は、中国国内における内外の敵対勢力を監視、防止し、摘発、処罰する根拠となる、極めて重要な法であると言える。
主管機関については、「国家安全機関が反スパイ工作の主管機関である」(同法第三条)と明示されている。さらに「公安、秘密保全行政管理等その他の関係部門及び軍隊の関係部門は、それぞれの職責に照らして分業し、密接に連携し、協力関係を強化し、法に基づき関係する工作を行う」(同条)とされ、関係機関がそれぞれの所掌に従いつつ、相互に連携協力しながら、反スパイ工作を行うべきことを規定している。
基本的には、国内治安維持任務は、中国国務院に属する行政機関である国家安全部と国家公安部、外国勢力によるスパイ活動対処任務は、党と国家の中央軍事委員会の指揮統制下にある人民解放軍総参謀部第二部が分担し、全体的には党中央統一戦線工作部が統括しているものとみられる。ただし、総参謀部は軍改革により解体再編された。
しかし現実には、これらの治安を管轄する諸機関は競合関係にあり、党中央の権力闘争に連動して、各機関相互間また各機関内でも熾烈な権力闘争が行われているとみられる。
「すべての中国公民(中国国籍の人民を指し、在外の者も含む)は、国家の安全と栄誉と利益を守る義務を有し、国家の安全と栄誉と利益に危害を加える行為を行ってはならない」(同法第四条)とされ、国家の安全と栄誉と利益の擁護が全公民の義務として明確に規定されている。
同様に、「すべての国家機関と武装力量(軍、武装警察、民兵を含むすべての武装力)、各政党、社会団体、企業、事業組織も、スパイ行為を防止、制止し、国家の安全を保護する義務を有する」(同条)とされている。
外国勢力については、「中国国外の機構、組織、個人が、自ら行い、あるいは他者にそれを実施させまたはその実施を助けた場合、あるいは国内の機構、組織、個人が国外の機構、組織、個人と共に、相互に連携し、国家の安全に危害をもたらすスパイ行為を行った場合は、すべて法律の追及を受けねばならない」(同法第六条)と規定している。
なお同条は、管轄域外(境外)と域内(境内)に区分されており、国家レベルだけではなく、省では省外者か省内者かと言った、地方レベルでの区分においても、適用されるとみられる。
また国籍ではなく、国内にいるか否かで適用区分が異なっている点には注意が必要である。外国国籍の者も、中国に入国した段階から監視対象になっているとみなければならない。
個人と組織のスパイ摘発への支持と協力も奨励されている(同法第七条)。特に外国人については、後述するように、報奨への欲求や個人的怨恨から、中国の一般人によりスパイと当局に通報され、根拠もなく拘束される恐れがあることに注意しなければならない。
包括的かつ恣意的なスパイ行為の定義
スパイ行為の定義は、同法第五章「附則」第三十六条に、以下のように列挙されている。
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スパイ組織またはその代理者が実施するかまたは他人に実施させ、または実施するのを助け、あるいは境内外の機構、組織、個人と結託して行われる、国家の安全に危害を及ぼす行為
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スパイ組織に参加するか、またはスパイ組織及びその代理人の任務を引き受けること
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スパイ組織及びその代理人以外のその他の境外の機構、組織、個人が実施するかまたは他人に実施させ、または他人の実施するのを助けた場合、あるいは境内の機構、組織、個人と結託して行われる、窃取、秘密裏の情報収集、買収、あるいは非法な国家秘密または情報の提供、あるいは工作要員を寝返らせるための策動、勧誘、買収活動
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敵国人のために攻撃目標を指示すること
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その他のスパイ活動を推進すること
さらに、「国家安全機関、公安機関は、法律、行政法規及び国家の関係規定に基づき、スパイ行為以外のその他の国家の安全に危害を与える行為を防止、制止し処罰を履行するにあたっては、本法の関係規定を適用する」(同法第三十九条)とされている。
第三十八条だけでも、境内外を問わず、すべての機構、組織、個人によるスパイ行為はもとより、その任務受託、ほう助、情報収集、金銭授受などは、すべてスパイ罪とみなされ、その他に⑤の規定もあり、極めて包括的な行為がスパイ行為として規定されている。
さらに、第三十九条の規定によれば、国家安全機関など当局は、本法の適用について自主裁量権を委ねられており、事実上、法適用の歯止めは無きに等しい。
これらの包括的な規定が、外国の人や組織を含め、当局の恣意で適用される危険性があることには注意が必要である。
また2010年に施行された『国家秘密保守法』の第四十八条によれば、以下の諸行為は、犯罪を構成する場合には刑事責任を追及されると規定している。
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国家秘密の内容を入手し特別に保有すること
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国家機密の内容を売買し、転送しあるいは勝手に廃棄すること
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普通郵便や速達の秘密保護措置のないチャンネルにより国家の秘密の内容を送付すること
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郵送または依頼により国家秘密の内容を境外に出し、あるいは関係主管部門の承認を経ることなく、国家秘密の内容を持ち出し伝達すること
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非法に国家秘密の内容を、複製、記録、保管すること
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私的な交流、通信などの連絡において、国家の秘密について触れること
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インターネットその他の公共情報網、またはまだ秘密措置が採られていない有線・無線の通信を使い、国家の秘密を伝達すること
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秘密を扱うコンピューター、データベースを、インターネットその他の公共の情報網に接続すること
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まだ防護措置が採られていない状況の下で、秘密を扱う通信系統とインターネットその他の公共情報ネットワークの間を接続し情報を交換すること
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秘密を扱わないコンピューターを使い、または秘密を扱わないデータベースで国家秘密の内容を処理すること
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自ら勝手に判断し、秘密を扱う情報系統の安全技術プログラムや管理プログラムに改修を加えること
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安全技術処理を経ることなく、秘密を扱うコンピューターや秘密を扱うデーダースを使用して、その他の用途のために、データを送り、引き出し、修正すること
後半の規定はすべてネットワーク情報に関するものである。このことから明らかなように、中国では2010年からすでに、秘密を扱うコンピューターやデータベースの使用や管理、その接続についても厳しく規制している。
特に、米国が支配している一般の公共用インターネットに対する警戒が強調されている。中国はそれ以前から米国のインターネットにサイバー攻撃をかけて、軍事技術情報などを大量に窃取していた。自らのサイバー諜報の効果を熟知していたからこそ、米側の反撃に対する情報ネットワークの防諜措置の徹底を図ったものとみられる。
防諜機関に保障された強力な権限
国家安全機関には強大な権限が与えられている。反スパイ工作間、法に基づき以下の措置をとる権限が与えられている。
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捜査、拘留、予審、逮捕その他法規に規定された職権の行使(同法第八条)
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中国公民と境外人の身分証明書の点検、その関係組織と人員についての関係状況の調査と尋問(同法第九条)
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相応の証拠を提示したうえでの、関係のある場所や単位組織への立ち入り、手続きを経て証拠を示したうえでの、関係の地区、場所、単位への立ち入りの制限、関係の保存書類、資料、物品の検査(同法第十条)
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緊急任務執行状況下、証拠を示したうえでの、公共交通機関の優先使用、及び交通が阻害される場合の優先通行(同法第十一条)
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必要に応じ、国家の関係規定に基づき、機関、団体、企業・事業体・組織及び個人の、交通手段、通信手段、場所、建築物を法に基づき優先使用し、必要な場合は、関係した工作活動をそれらの場所、設備、施設で展開することができる(同条)。
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必要に応じ、国家の関係規定に基づき、厳格な手続きを経て、技術的偵察措置を採ることができる(同法第十二条)。
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必要に応じ、規定に基づき、関係した組織と個人の電子通信機器、機材等の設備、施設を点検できる。点検して国家の安全に危害が及ぶとみられた時は、国家安全機関は責任をもってそれを改めさせねばならない。改めることを拒絶された場合または改めたのちに要求に合わない点があった場合は、差し押さえあるいは押収ができる(同法第十三条)。
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必要に応じ国家の関係規定に基づき、税関、国境警備隊などの検査機関に関係する人員、資料、機材などの検査免除を請求できる。関係検査機関はそれに協力しなければならない(同法第十四条)。
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スパイ活動の用具その他の財物から、スパイ行為の資金、場所、物資に至るまで、市級以上の国家安全機関が決裁して、法に基づき、差し押さえ、押収、凍結する責任を有する(同法第十五条)。
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必要に応じ関係部門は、反スパイ工作の技術防止のための標準を制定し、防止措置を執行し、秘密部門が存在する場合は技術防止検査を行うことができる(同法第十六条)。
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国家安全機関とその工作要員は、反スパイ工作の職責を法に基づき履行している際には、組織と個人の情報、材料を獲得し、反スパイ工作に用いることができる。国家秘密、商業秘密、個人の秘密に関することについては、秘密を守らねばならない(同法第十七条)。
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国家安全機関の工作要員は、法に基づき職責を執行する際、法律の保護を受ける(同法第十八条)。
以上のように、国家安全機関の反スパイ活動については、捜査、点検、拘留、逮捕、文書・情報・財物の差し押さえ・押収、場所・施設・設備の立ち入り制限と使用、公共交通機関の優先使用、活動における法の保護など、各種の強大な権限が与えられている。
当局の判断次第の権利保障
半面、組織や個人の協力義務は強調されているが、権利保障については、あいまいな規定が多い。
以下の協力義務が明示されている。
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機関、団体その他の組織は、それぞれの単位の人員に対し、国家安全保持の教育、動員、及び組織のそれぞれの単位の人員のスパイ活動の防止・制止を推進する(同法第十九条)。
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公民と組織は、反スパイ工作に対し、便宜を供与しその他の協力をしなければならない(同法第二十条)。
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公民と組織はスパイ行為を発見した時は、速やかに国家安全機関に報告しなければならない(同法第二十一条)。
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スパイ行為に関する情報の確認や収集に対しては、関係組織と個人はありのまま提供しなければならず拒絶してはならない(同法第二十二条)。
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いかなる公民も組織も、知りえた、反スパイ工作に関係した国家秘密を守らねばならない(同法第二十三条)。
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いかなる個人も組織も国家の秘密に属する、文献、資料その他の物品を非法に入手してはならない(第二十四条)。
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いかなる個人も組織も、スパイ活動に使用する特殊な必要性のある専門的なスパイ用機材を、非法に保有し使用してはならない。専用のスパイ機材は国務院の国家安全の主管部門により、国家の関係する規定に基づき確認される(同法第二十五条)。
この中で注目されるのは、第二十四条と第二十五条である。いずれもすべての個人と組織を対象としており、中国公民ではない外国人も外国の組織も対象となる。
今回の拘束事件では、中国外務省報道官は、「中国の国家機密に関わる資料」が見つかり、拘束された教授が「以前から大量の中国側の機密資料を収集していた」と語ったと、記者会見時に発表している。
このことは、同教授が、反スパイ法第二十四条違反の嫌疑をかけられた可能性を示唆している。
また同法第二十条と二十一条に基づき、すべての公民と組織は、当局の防諜活動に協力し、スパイ行為を「発見」した場合には、その情報を速やかに報告する義務を負っている。「発見」ということは、その疑いがあると一般人が判断した場合も含まれるとみられ、誤認や誣告により無実の外国人がスパイの嫌疑をかけられるおそれがあることを示している。
前述したように、現在も「事実関係が不明確なまま」9人の日本人が拘束されていると報じられているが、このような法規定が、無実の人に対するスパイ容疑ねつ造を生む温床になっていると言えよう。中国を訪問する日本人は、このような中国の国情を了解したうえで行動すべきであろう。
権利としては、以下の規定がある。
「すべての個人と組織は、国家安全機関とその工作要員の職権の越権・濫用その他の違法行為を、上級の国家安全機関又は関係部門に対して、告発または告訴する権利がある。それを受けた上級の国家安全機関などは事実を精査し、責任をもって処理し、その処理結果を告発または告訴した人に告知する。いかなる告訴あるいは告知した人や組織も、それに対する抑圧や打撃報復を受けることはない」(同法第二十六条)。
しかし、この規定では、告発や告訴の内容が事実か否かは、上級の国家安全機関や関係部門が決定することになっており、中立的な独立の審査が行われるわけではない。国家安全機関側が下部組織の違法性を自ら認める可能性は乏しく、空文の規定に等しいと言えよう。不服時の告知、告発についての真の権利が認められているとは言えない。
この点については、第二十六条の対象としてすべての個人と組織、すなわち外国人、外国企業も含まれており、日本人もこの点を了解しておかねばならない。日本国内のような司法の独立性や中立性はなく、法的な保護も中国国内法には期待できないことを覚悟しておかねばならない。
厳格な法律責任
第六条に規定された行為は犯罪を構成すれば刑事責任を問われる。ただし、「自首して大きな功績のある自供があれば、罪は減じられ、あるいは免除される。特に重大な功績のある自供には報償が与えられる」(同法第二十七条)とある。
今回、拘束されていた北大教授についても、「罪状をすべて認めた」との理由を付けて釈放している。中国側としては、本規定が実際に適用されていることを示し、寛大さと法の支配を誇示したかったのかもしれない。
また、米中貿易戦争のさなか、対日微笑外交を働きかけ、来春の習近平主席訪日を成功させたいとの、中国側の思惑も垣間見られる。
その他の同法違反行為として刑事罰に問われる可能性のあるものは、以下のとおりである。
境外で恫喝や勧誘を受け、敵対組織、スパイ組織に参加し、国家の安全活動に人事上の危害を与えたもの(同法第二十八条)、他人のスパイ行為を知りながら国家安全機関の情報収集、証拠提出などを拒絶したもの(同法第二十九条)、暴力や恫喝により国家安全機関の法執行を妨害したもの(同法第三十条)、反スパイ工作に関する国家秘密を漏洩したもの(同法第三十条)、非法に国家秘密に属する文書、資料その他の物品を保有し、またはスパイ専用機材を非法に保有していたもの(同法第三十二条)、国家安全機関が差し押さえ、押収、凍結した財物などを隠匿、移転、転売、廃棄したもの(同法第三十二条)など。
なお、境外の人員については、「期限が過ぎれば退去または送還させる」(同法第三十四条)とある。今回の釈放もこの規定に従った国外退去措置ともとれる。
いずれにしても、スパイ行為とみられる行為の範囲は多岐にわたり、目標を定めて常に監視していれば、上記のある条項に違反したとの理由で拘束することも不可能とは言えない。事実関係も不確かなまま、日本人が中国国内で拘束される事例が多発しているのも、このような当局による恣意的運用が可能な反スパイ法制が大いに影響していると言える。
結論
以上から見て、中国の反スパイ法は、国家安全機関の恣意的な運用が可能なほど、多種多様な行為をスパイ行為と規定しており、そのことはインターネットなどのサイバー空間でも同様である。国外での違法行為は通常、当該国の法規で裁かれるが、中国国籍を持つものは国外でも反スパイ法は適用されるとしている。また、中国国内の外国人にも、いくつかの条文に基づきスパイ罪で摘発、拘束できる法規になっている。
この点について、中国側と接触する日本人も日本の各機関、企業などもよく承知したうえで、中国国内での活動や接触に臨む必要がある。スパイ防止重視姿勢は、対日微笑外交の下でも緩和されてはおらず、習近平体制下では、むしろ引き締め強化の方向にある。中国国内では日本政府の保護にも限界がある。中国国内で行動する際には、謂れのない罪状を回避し安全を守る責任は、自からにあるとの覚悟を持たねばならない。
「本論は、JBPress(https://jbpress.ismedia.jp/)からの転載です。」
2019.10.15
派手な軍事パレードが如実に語る中国の内憂外患-IT強国が中国を崩壊に導きかねない皮肉と香港デモへの心配-(2019.10,8)
■派手な軍事パレードが如実に語る中国の内憂外患
IT強国が中国を崩壊に導きかねない皮肉と香港デモへの心配
2019.10.8(火)
矢野 義昭
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中華人民共和国建国70年を迎えた今年10月1日、かつてない規模の軍事パレードが挙行された。
パレードには、兵員約1万5000人、各種のミサイル、戦車、装甲車など約580の装備、軍用機160機以上が参加したと報じられている。中国国防省は、兵器はすべて国産であるとしている。
しかし、天安門の楼上で演説し、次々と目の前を通り過ぎる重装備部隊の敬礼を受ける習近平中央軍事委員会主席は、心なしか、自信なさげに見え、演説にも迫力が欠けていた。
その背景には、押し迫る内憂外患がある。
■強化された主席の軍事大権
習近平党総書記兼国家主席は、同時に党と国家の中央軍事委員会主席を兼ねている。
鄧小平と江沢民氏は、党総書記兼国家主席を退任した後も、中央軍事委員会主席の地位に残り、隠然たる院政を敷いた。
胡錦涛氏はこれを踏襲せず、党総書記兼国家主席退任と共に中央軍事委員会主席も譲っている。
中央軍事委員会主席は、人民解放軍、武装警察、民兵などからなる「全武装力量」に対して、唯一最高の指揮統帥権を有している。その最高指揮統帥権は、習近平体制下でさらに強化されてきた。
ただし、これらの武装力量は実質的には、党の私兵集団でしかない。国軍ではない。習近平主席は「偉大な中華民族の復興」を理念として掲げ、「富国強軍」を強調している。
しかし、その実体は、共産党の独裁支配のための「民族復興」であり「富国強軍」である。国際社会一般のナショナリズムとは本質的に異なる。
「国家」も「民族」も共産党独裁体制にとっては本来否定されるべきものであり、中国共産党が党益を、「国家」や「民族」のためと、僭称しているに過ぎない。特に「中華民族」という民族は歴史的文化的実体ではなく、虚構である。
その点で共産中国には、いかに強大な軍事力、武装力量を持とうと、あくまでも共産党のためのものであり、真の国防のためではないという、根本的矛盾がつきまとう。
習近平氏は2012年11月の党総書記兼党中央軍事委員会主席就任時に「軍事闘争準備が最も重要であるとの立場を堅持する」と表明している。
それ以来、反腐敗闘争を名目にして、権力闘争を進め独裁権力の確立に腐心してきた。軍に対しても徹底した腐敗一掃を要求し、郭伯雄、徐才厚らの江沢民派を粛清してきた。
また2015年頃から軍改革を断行し、30万人の兵員削減を唱え、これまで軍の利権構造の核心であり汚職腐敗の元凶となってきた、四総部(総参謀部、総政治部、総装備部、総後勤部)制と隷下の7個軍区制を解体した。
代わって、中央軍事委員会内部の機能的な15の中央幕僚機関とその隷下に統合軍である5大戦区が編成された。
その結果、軍事制度上は、中央軍事委員会主席が、地域統合軍となった5大戦区を、「堅固で強い戦区聯合作戦指揮システム」を通じて、直接指揮できることになった。
2017年10月の第19回党大会において、党規約に「習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想」という文言が盛り込まれ、習近平氏の独裁色が強まった。
2018年3月の全人代では、憲法第79条第3款の「国家主席と副主席の任期は2期を超えてはならない」との規定が改正され、国家主席の任期制が廃止された。
第19同党大会での習近平報告では、「中華民族の偉大な復興という中国の夢」を実現するための14の基本戦略が示された。
その筆頭には、「すべてに対する党の指導の堅持」が掲げられ、「党の人民軍隊に対する絶対指導の堅持」「全面的に厳格に党を管理することの堅持」も挙げられている。
また同党大会報告で明示された「中国の特色ある強軍への道」では、「精神的に優れた「革命軍人」の育成」および「人民軍としての特性と本質の保持」が冒頭で謳われている。
強軍のため、軍のプロフェッショナル化、軍務への専念が要求され、軍が民間の営利事業に関与し、あるいは軍人が副業をすることも、厳しく制約されるようになった。
規律維持のための法令の整備と遵守、「依法治軍」も強調されている。ただし、法令は党の意向に沿い定められ、司法の独立性はなく、党による軍に対する統制のための一手段と言える。
半面、規律強化に伴い、既得権を奪われた退役軍人の不満をなだめるため、「退役軍人の管理保証機構の構築」などの処遇改善施策もとられている。
このように、習近平主席の独裁権力、特に軍に対する指揮統率権は、毛沢東に次ぐほど揺るぎないものに、制度上は強化されてきた。
■頻繁な軍事パレードの意味
しかし今回も93歳の江沢民氏が両脇を抱えられながら、習近平の隣に並び、その健在ぶりを示した。白髪が目立ち弱った様子の胡錦涛氏とは対照的であった。
中国共産党の歴史では、軍事パレードは、時の中央軍事委員会主席が統治の成果を誇示する場として利用されてきた。
毛沢東は建国以来1959年まで11回連続で毎年軍事パレードを行った。それ以降長く途絶えていたが、鄧小平時代の1985年に再開された。
それ以降歴代の主席は、退任近くの在任間に1回軍事パレードを挙行するのが慣例であった。江沢民氏は15年ぶりに1999年に軍事パレードを行い、胡錦涛氏は2009年に軍事パレードを行った。
しかし、習近平主席は2015年の「抗日戦争勝利70周年」、2017年の「軍創設90周年」に続き、中央軍事委員会主席就任以来6年半で、これで3回目の軍事パレードを行っている。
なぜ、このように頻繁に軍事パレードを行うのだろうか?
習近平主席は、軍事力こそが、国際間の闘争における決定的なパワーであるとする、マルクス・レーニン主義、さらに「銃口から政権が生まれる」とする毛沢東思想の伝統的な戦略思想を継承している。
第19回党大会の基本戦略の一つである、「党の人民軍隊に対する絶対的指導の堅持」でも、「指揮系統を統一し、戦って勝てる優秀な人民軍を建設」することが「中華民族の偉大な復興という戦略目標を達成するための基盤」であるとされている。
この意味で、軍事力整備の成果を本物の部隊や装備で誇示できる軍事パレードは、習近平主席にとり、極めて重要な意義を持っている。
では、同氏が誇示しようとしている今回の軍事パレードの内容には、過去と比較してどのような特色があるのだろうか?
2019年10月2日、中国・参考消息はキューバメディアの報道を引用し、ロシア人軍事専門家バシリー・カシン(Vasiliy Kashin)氏による、今回の軍事パレードの重要性についての分析結果を報じている。
今回の軍事パレードのために中国は数カ月間をかけて十分な準備作業を行ってきたと記事は紹介し、軍事パレードの重要性は「未公開の武器の登場と中国の近年の軍事的進歩を示すこと」にあると論じている。
これまでの中国の軍事パレードを振り返ると、1999年に初めて大陸間弾道ミサイル(ICBM)の「東風31(DF- 31)」が公開され、2009年には中国の武装部隊の技術的な進歩が明らかになったと記事は指摘している。
「2009年の軍事パレードでは急速に主要国に追い付きつつあることが示され、国内外の人々の中国軍に対する印象を大きく変化させた」と述べている。
カシン氏によると、中国の軍事パレードは2015年からより注目すべきものになった。
当時、中国は戦略兵器の面で進歩を遂げており、初めて「東風5B(DF-5B)」ICBMと「東風16(DF-16)」「東風26(DF-26)」中距離弾道ミサイルが世界中の人の目に触れることになった。
その2年後には、人民解放軍創立90周年を記念する軍事パレードが行われ、移動式固体燃料ICBMの「東風31AG(DF-31AG)」が公開されたと記事は紹介している。
その上でカシン氏は、「今年の軍事パレードも例外ではなく、中国はこの機会に軍事面での成功をアピールした」とし、「中国は多くの『東風41(DF-41)』を一斉に展示した。
中国がこうしたミサイルを量産していること、および効率的に製造できる能力を有していることを示すものだった」と述べている(『Record China』2019年10月4日) 。
軍事パレードにおいて、「軍事闘争準備」に怠りがなく、「戦って勝てる」軍事力の建設が進んでいることを誇示することこそ、共産党と自らの独裁権力を維持するための力の源泉であると、習近平主席自らが確信していることを示唆している。
習近平主席の念頭には、毎年軍事パレードを挙行した毛沢東に自らをなぞらえ、毛沢東を継ぐ独裁者たらんとする意図もあるとみられる。
逆に言えば、習近平氏の場合は、軍務についた経験がなく、カリスマ性にも欠ける。
また江沢民氏の隠然たる権力に対抗するためにも、頻繁に軍事パレードを行うことにより、その実力を成果として何度も誇示しなければ不安になるという、習近平主席のコンプレックスが表れているとも言えよう。
軍事力の誇示によって実績を示さなければ自己の統治の正当性を党内の反対派や人民に納得させられないのではないかという不安は払拭されてはいない。
■戦力整備の進展とその脅威
習近平主席は、2020年までに人民解放軍の「機械化、情報化を全面的に進め」、建国百年の今世紀半ばまでに、「社会主義の現代化強国」を建設し、軍の理論、組織、人員、装備のすべての面で米軍に並ぶ「世界一流の軍隊」を造ることを目標として掲げている。
特に力を入れているのは、米軍の脆弱点であり優位を確立する余地のある、非対称戦と言われる分野である。
宇宙、サイバー、電磁波という新たな戦略的ドメインにおける「情報戦」を統括する部隊として、「戦略支援部隊」が創設された。
また、核・非核の戦略・戦域戦力を統括して指揮運用する「第二砲兵」は、他軍種並みの「ロケット軍」に格上げされた。
今回の軍事パレードでも、「情報戦」の要となる指揮統制通信・コンピューター・情報・警戒監視・偵察(C4ISR)関連システムとそれに連接した攻撃型、電子戦用、無線中継用など各種の無人機、無人潜水艇および各種のミサイル戦力が大々的に展示された。
また、機械化が進み、兵站関係装備が充実し、ミサイル運搬車両は荷重がかかっており実ミサイルが搭載されていると見られるなど、「戦って勝てる人民軍」を誇示する姿勢もうかがわれた。
2019年10月2日、中国メディアは、1日に行われた中国の軍事パレードで米メディアが注目した武器について伝える記事を掲載した。
その一つが、今回初めて披露された中距離弾道ミサイル「東風17(DF-17)」。
記事は「全天候型で中近距離の目標を正確に打撃できる」などと述べ、AP通信が「新型の極超音速兵器で、米国やその同盟国が配備するミサイル防衛システムを突破できるとされる」と報じたことを紹介した。
2つ目は「轟6N(H-6N)」。
今回初公開となったこの国産の長距離戦略爆撃機について、CNNは「H-6シリーズは長年、中国の核心的な長距離戦略爆撃機となっている。1日に公開された新型は、大幅なレベルアップがされていると思われる」と伝えたという。
3つ目は「東風41(DF-41)」。
記事は「大陸間弾道核ミサイルで、中国の戦略核兵器の重要な柱」と紹介し、CNNが「DF-41はこの先数年にわたって人民解放軍ロケット軍の装備における支柱となるだろう」と報じたと説明した。
地球最強の大陸間弾道ミサイルとも言われているという。
4つ目は「巨浪2(JL-2)」。
記事は、「この潜水艦発射弾道ミサイルも今回初めて公開された」と紹介。CNNは、潜水艦1隻当たり12発のJL-2を搭載することができ、その射程距離は7200キロとみられると指摘したという。
5つ目は「無人航空機と無人潜航艇」。
記事は「わが軍の新型作戦能力が長足の進歩を遂げていることを印象づける成果」と紹介。CNNはパレードでこれらが披露されたことを報じたという(『中国日報網』2019年10月2日)。
核・通常弾頭を兼用し、グアム・キラーと称される中距離弾道ミサイル「DF-26」も2015年以来引き続き登場している。
これらの装備は、日韓台やグアムに対し、ミサイル防衛システム(MD)を突破して攻撃できる核・非核による攻撃力が向上し、同時に、MDを突破して米大陸に攻撃が可能な戦略核戦力が増強されていることを意味している。
また、複数弾頭化に伴い、中国の核弾頭保有数も今後急増し、来年のGPS「北斗」の全面稼働に伴い、ミサイルの誘導精度もさらに向上するとみられる。
すなわち、A2/AD戦略の能力が向上するとともに、米中間の戦略核バランスが相互確証破壊にさらに近づいたことを示している。今後、米国の核の傘の信頼性はさらに低下し、グアム以西における米空母に対するリスクも高まるであろう。
また、2020年までの「全面的な機械化と情報化」のための各軍種の戦略方針が、2015年と2019年に発表された『国防白書』に示されている。
それらによれば、陸軍は地域防御型から「全域機動型」、「島嶼防衛などの機動作戦」重視へ、海軍は近海防御から「近海防御」+「遠海護衛」へ、空軍は防空主から「攻防兼備」の「遠距離攻撃」重視へと、転換を遂げている。
実戦配備された最新鋭ステルス戦闘機「J-20」、ステルス無人機「CH-7」、無人偵察機、極超音速巡航ミサイル「DF-100」なども登場した(『朝日新聞』2019年10月2日)。
今回登場したこれらの新兵器システムは、新たな戦略転換に対応するための戦力整備が着実に進展していることを示している。
これらは米軍が指摘する「接近阻止/領域拒否(A2/AD)」戦略を引き続き追求するとともに、米軍の脆弱点を突く、宇宙、電磁波、サイバー、無人兵器、AIなどの新領域、新装備での非対称戦を挑み、「新たな戦略的高地」における優位を獲得しようとする、戦略構想を反映している。
その意味では予想通りの装備であり、特に驚くべきものはないが、既定の戦略に沿った装備体系が、着実に進歩を遂げていることは明白である。
極超音速の滑空飛翔体とみられる「DF-17」、各種ドローンなど、米ロに先駆けて実戦配備しているとみられる兵器も登場している。
しかし、そのような強大な軍事力でも抑止できず統制が可能か不安を感じさせる内外情勢が迫っている。それが、習近平主席の憂慮の理由ではないだろうか。
■困難の度を増す内憂外患
習近平主席は、軍事パレードの演説において、「社会主義の中国は今日、世界の東方に屹立し、いかなる勢力も我が祖国の偉大な地位を揺るがすことはできない」とし、中国共産党による独裁体制下での成果を誇示し、その地位の堅固さを強調している。
また反中デモの続く香港については「一国二制度」を維持するとし、中台関係については「両岸関係の平和的発展を進め、祖国の完全な統一のために引き続き奮闘する」と強調している(『読売新聞』2019年10月1日夕刊、同10月2日)。
これらの言葉の背景には、内憂外患への危機感がある。
米国のドナルド・トランプ政権は、対中貿易戦争を発動し、中国の軍民両用分野での先端技術と経済面での覇権を許さないとする姿勢を強め、米議会では超党派で反中政策を支持する声が高まっている。
第19回党大会報告でも基本戦略の一つに、「一国両制と祖国統一の堅持」が謳われている。特に祖国統一のための台湾問題については、「(台湾同胞と)共同で、偉大な中華民族の復興の実現のために奮闘する」としている。
「一国二制度」を拒否し対米接近を強める台湾の蔡英文政権への警戒心は高まっている。蔡英文総統の再選を阻止することが、中国共産党にとり、当面最も重視すべき両岸政策であろう。
他方、香港では10月1日も「(今日は)国慶節ではなく、国に哀悼を捧げる日だ」「中国共産党は消えろ」と叫ぶデモ隊を、5000人の警察官を投入しても鎮圧できなかった。
警察官がデモに参加していた高校生に至近距離から実弾を発砲し、高校生が重傷を負うという事件も起きている。
香港の民主化を求めるデモは、犯罪者引き渡し条例の撤回声明後も収束する気配はなく、長期化するであろう。
経済面でも中国は、米中貿易戦争が起きる前から、「新常態」と言われる低成長に移行していた。それが米中貿易戦争に伴いさらに悪化している。
米国への輸出品に対する米側の関税引き上げ、それに伴う対米輸出の停滞、国内での企業倒産と失業者の急増、外国企業のインド・東南アジアなどへの移転、外資の中国投資の手控え、資金の国外逃避、外貨不足、元安と株価の下落などの現象が起きている。
このため、中国国内の経済・金融情勢は悪化し、今後さらに失業者が増加し、社会不安も高まっていくことと思われる。
その意味でも、習近平政権としては、香港や台湾の民主化運動が大陸に波及することを極度に警戒しているとみられる。
香港暴動を力で鎮圧することは可能であろうが、弾圧に踏み切れば、第2の天安門事件となり、国際的な反発を呼ぶことは必定である。
その結果、外国企業と外資の中国からの逃避、元の暴落と外貨の不足、米国の関税引き上げその他の追加的な対抗措置による輸出縮小など、経済と金融秩序も崩壊するおそれがある。
それは、全国的な暴動などの社会秩序の破綻、ひいては共産党独裁体制の崩壊すら招きかねない。
このように、習近平政権は巨大な軍事力を一手に指揮統御する体制を確立したものの、それを有効に生かせないままに、米国の貿易戦争と台湾、香港での民主派の活動という、間接的に中国共産党独裁体制崩壊を促進する諸要因により、身動きの取れない窮状に追い込まれつつあると言えよう。
■情報化社会が独裁体制にもたらす結末
もう一つの重要要因として挙げられるのは、中国が得意としてきた心理戦、輿論戦、法律戦(「三戦」)に代表される、広義の「情報戦」である。その目標は相手国の人心の変容、すなわち『孫子』の言う「謀を伐つ」ことにある。
典型的な新ドメインはサイバー空間である。
サイバー攻撃により、個人であれ国家主体であれ、狙った相手国国民の意識を変え抵抗意思を奪えば、『戦わずして、人の兵を屈する』ことができる。
情報化社会においては、サイバー空間を利用し、ほとんどコストをかけることなく、相手に正体を知られることなく匿名で、世界のどこに対しても誰に対しても、いつでも奇襲的なサイバー攻撃が可能である。
サイバー攻撃と共に、通常のインターネット空間においても、匿名性を悪用して、フェイク・ニュースの大量拡散などによる、受け手側の心理操作も容易にできる。
また、国家主体が組織的かつ広範に専門のサイバー部隊によって情報戦を行えば、相手国の輿論誘導や選挙介入、社会不安の増長、大量の秘密情報の窃取も可能になる。
一般に民主国家の言論空間では、開放性、言論の自由とプライバシーの尊重が前提になっているため、独裁体制に比較して、この種のフェイク・ニュースなどに脆弱である。
中国は独裁体制下で先端的なIT技術を駆使してデジタル監視社会を創り、人民一人ひとりを厳しい監視下に置き、反抗、反体制の芽を早期に摘み取り、社会全体の統制を強化することにより、共産党独裁体制を維持強化しようとしている。
しかし、そのような手法は、いったん社会秩序が弛緩し、ネット空間の統制力が弱まれば、反体制派、民主派、少数民族などの抵抗勢力が相互に連絡を取り、共同行動を起こすことも可能にすることになる。
いま香港で起きているデモも、そのような民主派の、自然的なSNSを介した横の連帯が生んだものであろう。
天安門事件当時に比べ体制側の治安維持能力や暴動鎮圧能力が質量ともに強化されているにもかかわらず、効果的なデモの取り締まりができないのは、そのような反体制派、民主派の抵抗組織の柔軟性と参加者相互の情報交換のネットワークの強靭さによるものであろう。
今後も、情報化は加速的に進展していくものとみられるが、共産党独裁体制がいつまでもネット空間を監視し支配できることはないであろう。
皮肉なことだが、中国が世界に先行しているとする5Gの進歩が、中国共産党の監視や統制が利かない、情報の量と速度の交換を実現し、体制を揺るがすことになる可能性は高い。
ソ連が崩壊したのも、ロナルド・レーガン政権が挑んだ、軍拡競争による経済破綻が原因ではない。そのような大規模な軍拡をゴルバチョフ政権は行っていない。
むしろゴルバチョフ氏が奨励した「グラスノスチ」と言われる情報の開示、自由な発言の容認が、体制のタガを弛緩させ、その隙間からまず東欧圏で、次いでソ連国内で、一気に噴出した自由と民主化を求める民衆の声を軍や警察力でも抑圧できなくなったことが原因である。
同じことはいずれ、中国共産党の独裁体制でも起こるものとみられる。ソ連軍は米軍と並ぶ、世界第2の軍事大国であった。それでも、体制を締め付けていたタガが緩むと、ほどなくして内部から崩壊してしまった。
冷戦末期、東欧では家々に鍋などを改造したパラボラアンテナが立てられ、西側の衛星放送を民衆は見ていた。
西側の自由と豊かさを東欧の民衆は熟知していた。共産党の嘘にも民衆はとっくに気づいていた。同じことは、中国でも都市部などを中心に起こっている。
香港や台湾の民衆と同じ思いを、中国大陸の多くの民衆も共有しているはずである。後はいつ独裁のタガが緩むかというタイミングの問題であろう。
しかしその時期はそう遠くはないとみるべきであろう。それほど、情報のグローバル化の速度と変化は激しい。
習近平中央軍事委員会主席の権力は、制度的には過剰なほどに保証されているが、それがどれほど実を伴ったものか、どれほどの将兵が、自らの命に代えても、習近平と中国共産党の独裁を守り抜く覚悟を固めているのかは、誰にも分からない。
ソ連という巨大な社会主義帝国が崩壊した時、ソ連に殉じ自決したのは、アフロメーエフ元帥ただ一人であった。
本コラムは<jbpress.ismedia.jp>からの転載です。
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2019.08.22
文在寅政権で急増、大量破壊兵器転用物質流出 金額にして24倍、在韓米軍撤退も視野に風雲急な朝鮮半島
2019.8.22(木)矢野 義昭
韓国の文在寅政権は日米との安全保障面での軋轢を強め、北朝鮮、中国に対する融和姿勢を強めている。
文在寅政権は本当に中朝との友好を前提とする安全保障政策に切り替えようとしているのであろうか?
■対馬領有を主張していた韓国
竹島についてわが国は、1905年に竹島を島根県に編入することを閣議決定し、領有意思を再確認するとともに、主権の行使を他国の抗議を受けることなく、平穏かつ継続して行ってきた。
このことはわが国の竹島に対する領有権が、国際法に基づき合法的に確立されてきたことを示している。
そのような合法的なわが国固有の領土であった「竹島」に対し、根拠のない領有権を一方的に主張し始め「竹島」問題を創ったのは、初代韓国大統領李承晩(イ・スンマン)である。
1945年9月、日本占領下で日本漁船の操業海域を制限するため、その限界線を定めた「マッカーサーライン」が引かれた。
1947年には韓国は同ラインを越えて日本漁船が操業したとの理由で、日本漁船の拿捕を開始している。
米国の外交文書によれば、韓国はサンフランシスコ平和条約締結交渉の際に、米国に対し「対馬は韓国領土である」と、強く主張していたことが明らかになっている。
これに対し、「対馬は日本が長期間にわたり完全に統治しており、講和条約は対馬の現在の地位に影響を及ぼさない」とし、ジョン・フォスター・ダレス国務長官は、「根拠がない」と、韓国の要求を拒否した。
韓国では2005年、わが国の「竹島の日」制定に対抗して、「対馬の日」を制定し、2008年7月、国会において「対馬返還要求決議案」を発議しており、現在も対馬の領有権を主張している。
このように韓国には、竹島よりも早くから対馬侵略の野心があり、今も放棄していないことに、日本は警戒しておかねばならない。
朝鮮戦争は、九州占領を企図していた李承晩大統領が韓国軍を南に集結させていたため、空白になっていた背後を北朝鮮に奇襲されて起きたものであり、芦田均首相が、警察予備隊の創設を主張したのも、韓国軍の九州占領を阻止するためであったとの、元芦田首相側近の証言もある。
対馬領有の主張を米国に拒否された韓国の梁裕燦(ヤン・ユチャン)駐米大使が、対馬に代り竹島の領有権を持ち出した。
これに対して米国務省は1951年8月10日付の書簡で、竹島は1905年頃から島根県隠岐支庁の管轄下に置かれており、日本固有の領土であると回答し、韓国による領有権主張を否定している。
■「竹島」を「征服」した韓国 韓国を増長させた日本側の穏便方針
それにもかかわらず、韓国はわが国が主権回復するサンフランシスコ平和条約発効の3カ月前に、日米の抗議を無視して、領有権を主張し事実上の軍事境界線である李承晩ラインを一方的に宣言し、その中に竹島を取り込んだ。
国際法に則り、日本が領有権を確立してきた竹島に対して、韓国は国際法違反の李承晩ラインを根拠に、この時期に実力による「征服」を行った。
「征服」による領土併合は今日の国際法では認められていない。
また李承晩ラインの違法性は、宣言直後から米、英、中華民国などからも指摘されている。
李承晩大統領の狙いは、竹島の領有だけではなく、折からの日韓会談に対し、「野蛮な人質外交」を展開して日本政府に国際法違反の無理な要求をのませることにもあったとみられる。
李承晩ラインの宣言は、1952年2~4月の第1次日韓会談直前の同年1月に強行された。
日本の主権回復、独立の直前にマッカーサーラインは消滅し、日本漁船は自由に操業できるようになっていた。
それにもかかわらず、李承晩ラインを根拠に、韓国は日本の独立後も日本漁船の拿捕を強行した。
さらに翌年の第2次会談の直前の1953年2月には、日本漁船に銃撃を加えて漁民を殺害するという第一大邦丸事件が生起し、会談中に竹島に守備隊を駐屯させている。
しかし当時の日本政府は、日韓交渉を進めるため韓国側を刺激するのをおそれ、断固とした対応をとらなかった。
1953年6月27日の日本側の竹島調査時に、不法上陸した韓国漁民6人に対して「船隊指揮官の命により保安本部係員が厳粛かつ事務的に日本領であることを話し彼らに退去を命令」したと島根県知事に報告されている。
この時点では、竹島は日本が支配していた。
しかし、海上保安庁の同年6月17日付内部文書によれば、第八管区海上保安本部に対して出された、時の取り締まり方針では、「相手側との紛争はできるだけ避けること」にして、また「同島の3海里以内に韓国漁船を発見した場合あるいは同島に上陸してくる韓国人を発見した場合は、出入国管理令又は漁業管理法令違反として、司法処分することなく退去を勧告してこれを退去させる措置を講じることとした」とされている。
この基本方針は、同年6月に外務省主導下で関係省庁が対策を協議しており、その時に「竹島問題対策要綱」として決定されたものとみられている。
同年7月2日には巡視船「ながら」が竹島を巡視して調査を行い、同月9日には、巡視船「おき」が巡視を行ったものの、公務員常駐などの竹島の管理強化をしなかった。
これらの日本の対応は韓国を増長させた。7月12日には巡視船「へくら」への銃撃事件があり、翌1954年6月11日には韓国政府は竹島に海洋警察を急派した。
1954年11月、時の海上自衛隊舞鶴地方総監麻生孝雄氏は、「竹島問題は武力に訴えるものではなく、政治的に解決すべきで」、「国力が回復すれば自然に解消する問題で、下手に武力紛争を起こすことは李ライン全域に対して韓国(略)の圧迫強化を導くことになり、かえって漁民を苦しめるだろう」と語った。
(藤井賢二『竹島問題の起源-戦後日韓海洋紛争史―』ミネルヴァ書房、2018年、9~14頁)
その後も韓国側の拿捕、抑留、銃撃は続き、日本漁船の竹島近海への接近すら困難になっていった。
『海上保安庁レポート2007』によれば、拿捕された日本漁船は計326隻、抑留された乗組員は計3904人に上った。海上保安庁巡視船への銃撃も15件、16隻に及んでいる。『海上保安白書 昭和四十一年版』では8人が死亡したとされている。
このような「野蛮な人質外交」が最も効果を上げたのが、「一九五七年十二月三十一日の合意」であった。
この合意では、日韓交渉の最大の対立点だった、約22億ドルに上る、韓国に残してきた日本の財産に対する請求権を日本は放棄した。それと引き換えに、ようやく韓国は抑留漁船員の送還に合意した。
また日本は、被害総額250億円以上と見積もられた、日本漁民が受けた直接間接の損害賠償についての韓国側に対する請求権も放棄した。賠償金はすべて、日本政府が支払うことになった(藤井、同上書、29~33頁)。
そのうえ、1965年に締結された日韓基本条約中の「(日本と)韓国との請求権・経済協力協定」では、日本は韓国の要求を最終的に受け入れ、無償資金3億ドルと長期の低利貸し付け2億ドル、総額5憶ドルの提供を約束した。その額は当時の韓国の国家予算の1.4倍だった。
このようにして、李承晩政権以来の「野蛮な人質外交」による恫喝を交えた、韓国側の国際法無視の強硬姿勢に、日本側は屈した結果となった。
しかし現在では、国際法上「征服」の領域権原性は認められておらず、竹島の領有権が日本に帰属することは明らかである。
今年7月の中露両軍機の竹島接近・領空侵犯事案は、韓国が主張する実効支配が現実の中露の軍事的威圧の前には、効力をもたないことを露呈させた。
■反日姿勢を強め自ら孤立を深める韓国
このように韓国の「野蛮な人実外交」に日本が屈した別の大きな理由として、冷戦のさなかにあり、米国側から共産主義国の脅威を封じ込めるためには日米韓の安全保障上の連携が重要であるとの要請があったことが挙げられる。
また日本としても、北朝鮮の独裁政権に対して韓国の安全保障と経済発展を支えることが、日本の国益にとっても死活的に重要との判断があったとみられる。
李栄薫(イ・ヨンフン)ソウル大学名誉教授らが指摘する「反日種族主義」を強める文在寅政権は、今年8月4日の『中央日報』によれば、匿名の軍・政府当局者の話として、竹島近海で、近く8月中にも韓国軍による軍事演習を行う可能性が報じられており、竹島実効支配強化の姿勢を示している。
今年7月23日、韓国軍はロシアの「A50」空中警戒管制機が領空侵犯したとして警告射撃を行ったほか、中露の戦略爆撃機が韓国の防空識別圏に入ったと発表した。
これを受け露国防省は、中露の爆撃機が史上初の合同パトロールを実施していたと公表。目的は共同軍事活動能力の強化だったとしている(『産経ニュース』2019年7月28日)。
韓国の防衛・警備能力は、単独では、中露の対馬海峡から日本海での連携行動を阻止する力はない。中国軍がロシアの防空部隊の掩護下で行動することに近く合意するとの報道もある。
これに連携するように、北朝鮮は今年7月以降、韓国全土と対馬など日本の一部に届くとみられる各種の短距離ミサイルの発射試験を連続集中的に行っている。
ロシアのイスカンデル型に類似した低空を飛行する精度の高い弾道ミサイルの発射も重点的に行われている。
このような低高度を飛行する短距離ミサイルはTHAAD(終末高高度防衛ミサイル)では迎撃できない可能性が高く、韓国と在韓米軍のミサイル防衛システムの無力化を狙った新型ミサイルの開発配備能力を誇示する動きとみられる。
米国のドナルド・トランプ大統領は、これらの短距離ミサイルの発射試験について、弾道ミサイルの場合は明らかに国連の制裁決議違反であるにもかかわらず、問題視しないとの姿勢を示している。
今後は、韓国は対馬海峡方面からも中露の軍事圧力を受けることになり、日韓の分断と韓国の海洋勢力からの孤立はさらに深まることになると予想される。
これに対抗するには、日韓の連携を強めなければならないはずだが、文在寅政権は逆に反日姿勢を強めている。
■文在寅政権の反日姿勢に毅然とした対応をとるべき日本
文在寅政権下で、韓国最高裁は、いわゆる「元徴用工訴訟」において、日本企業に対し損害賠償を命ずる判決を下している。
しかし、日韓請求権協定により、すべての請求権問題が、個人補償も含めて、日韓で「完全かつ最終的に解決することとなることを確認した」はずであった。
このような国際間の取り決めに反する国内司法の裁定については、国際法に基づき、国内司法を自制させるとともに条約上の取り決めを遵守すべき責任が、文在寅政権にはある。
しかし文政権は、司法の独立を口実にして、対応策をとろうとしていない。
これは、日韓基本条約締結交渉時の22億ドルに上る在韓日本財産請求権放棄に次ぐ、日本人・企業の財産権に対する侵害をもたらしかねない裁定である。日本政府が日本企業の財産権を守り抜くとしているのは当然の措置と言える。
日韓基本条約交渉当時と現在とは、日韓関係は大きく変化している。
日本としては、韓国を特別扱いし、国際の法規慣例と事実関係を無視して、不当な要求を突きつけてくる韓国、特に親北姿勢を明確にしている文在寅政権に対しては、譲歩し、あるいは特別扱いをする必要はない。
むしろ安全保障上の観点からも、国際的責務を果たすためにも、正当な要求は通さねばならない。
対韓輸出規制強化措置についても、大量破壊兵器に転用可能な物資がイランやシリアなどに密輸されていることも、文在寅政権になってからその件数が3.4倍、金額で24倍に急増していることも明らかになっている。
(西岡力「安倍首相が信用しない理由」『正論2018年9月号』)
このような状況は、日本の安全保障にとり看過できない問題である。
また、これを阻止するために輸出規制を強化するのは、大量破壊兵器関連物質の各種の規制レジームに参加している日本として、果たすべき国際的責務でもある。
軍事面の日韓の協力関係でも、様々の軋轢が生じている。両国間には今年8月24日に更新の判断期限を迎える軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の更新について、日本側は継続を希望しているが、韓国は破棄を示唆している。
また日本政府の『2019年版防衛白書』の原案では、「安全保障協力」の章で重要度を示すとされる記述順を、韓国について18年版は2番手だったが、今回は4番手と位置づけている。防衛省筋は「事実上の格下げを意味する」と明言している(『共同通信社』2019年8月10日)。
日韓のGSOMIAについては、北朝鮮が短距離ミサイルの発射試験を繰り返すなか、日韓双方にとり必要性は高まっている。それにもかかわらず、文在寅政権は頑なに日本の輸出規制強化措置を理由に破棄を示唆している。
日本の輸出規制強化措置は、単に韓国を優遇措置の対象国から外すというにすぎず、禁輸ではなく手続きを踏めば入手可能であり、韓国が過剰反応するような報復措置などではない。
それにもかかわらず、国内世論向けに文政権は、反日扇動の材料として使い、支持率アップにつなげようとしている。自国の安全保障にとり、GSOMIAを維持することが有益なことは言うまでもない。
■強まる米韓共同防衛体制の軋轢
同様の軋轢は、米韓の間でも生じている。
2016年1月の北朝鮮の核実験強行などを受け、米韓両国は、同年2月より在韓米軍に対するTHAAD配備について公式協議を開始し、同年7月、配備を正式決定した。
しかし中露両国は、グローバルな戦略バランスを崩し戦略的安定性を損なうとして、欧州と並び韓国へのTHAADシステム配備には、2016年3月11日、中露外相が共同で反対を表明している。
王毅部長は「米国のこのミサイル防衛システムは、朝鮮半島の実質的防衛の需要を超え、同地域の戦略的バランスを壊して新たな軍備競争を触発する」と述べた。王部長は「米国の朝鮮半島へのTHAAD配備は防衛目的を超越している」と評価した。
ロシアのラブロフ外相も「私たちはミサイル防衛に対して立場を共有している」「私たちは国連などの国際舞台で(THAAD反対の)主張をしていく」と述べた。
またTHAADは「グローバルバランスと戦略的安定破壊という脅威を加える」とも述べた。
さらにラブロフ外相は「私たちはこの2つの方向(朝鮮半島のTHAADと欧州のMD)のいずれにおいても、グローバルバランスと戦略的安定性を毀損する恐れがある計画は不当だと考える」と述べた(『ハンギョレ新聞』2016年3月12日)。
文在寅政権は当初、THAADの追加配備に慎重だったが、北朝鮮の相次ぐミサイル発射などを受けて、2017年4月末には運用予定地への同システムの一部の配備が開始された。
同年9月には発射台4基が追加配備され、同システムの臨時配備が完了した。加えて、同月の米韓首脳会談において、韓国や周辺地域に、米国の戦略アセットの循環配備を拡大することで合意した(『平成30年版日本の防衛』87頁)。
しかし他方で、2017年6月7日韓国政府はTHAADの追加配備に関しては「4基の配備は用地の環境影響評価作業が終了してから決定する」と発表した。環境評価作業には1年は要するため、事実上の「中断」に等しいともみられていた。
臨時配備完了後の2017年10月30日、 韓国の康京和(カン・ギョンファ)外交部長官は、韓国の国会外交統一委員会の国政監査で、次のように述べている。
①韓国は米国のミサイル防衛(MD)システムに参加しない
②THAAD追加配備を検討しない
③韓日米安保協力は軍事同盟に発展しない
外交部長官が韓日米軍事同盟に言及したのは異例だった。
康長官の午前の発言の後、中国は同日午後に公式的な反応を見せた。中国外務省の華春瑩報道官は康長官の発言に関連し、「我々は韓国側のこうした3つの立場を重視する」とし「韓国側がこれを実際に行動に移すことを願う」と述べた。
韓国の外相が前日、THAAD問題について「3つのノー」を約束したことに続き、中韓両国の外交部は31日午前に公式サイトで、中韓双方は両軍ルートを通じ、THAAD関連問題について意思疎通をすることを決定したと発表している(『中央日報』2017年10月31日)。
このように文在寅政権のTHAAD配備に対する姿勢は、米中両国のはざまに立ち、右往左往し方針が定まらない状況が続いている。
同様の混乱は、在韓米軍の戦時作戦統制権の問題でも生じている。
廬武鉉(ノ・ムヒョン)政権は、米国に対し在韓米軍の戦時作戦指揮権の韓国への移管と米韓地位協定の見直しを要求した。
地位協定の見直しについては実現しなかったが、戦時作戦統制権の移管については、2010年に移管のためのロードマップである「戦略同盟2015」が策定された。
2015年12月1日までの移管完了を目標として、従来の「米韓軍の連合防衛体制」から「韓国軍が主導し米軍が支援する新たな共同防衛体制」に移行する検討が行われていた。
しかし、北朝鮮の核・ミサイルの脅威が深刻化したことなどを受け、第46回米韓安保協議会議において、戦時作戦統制権の移管を再延期し、韓国軍の能力向上などの条件が達成された場合に移管を実施するという「条件に基づくアプローチ」が採られることが決定された。
韓国軍の能力向上の中心となる三軸システムの整備完了目標が2020年代初頭までとされており、2017年10月の第49回米韓安保協議会議では、次回会議までに、条件に基づく移管計画を米韓共同で保管させることが合意された(『平成30年版 日本の防衛』87頁)。
この戦時作戦統制権移管問題について、鄭景斗(チョン・ギョンドゥ)国防部長官とパトリック・シャナハン米国防長官代行は今年6月3日、ソウル国防部庁舎で韓米国防長官の会談を開き、戦時作戦指揮権が韓国軍に転換された後、韓米連合軍司令官は韓国軍の4つ星の階級章の将軍(隊長)が引き受けることに合意したと報じられている(『中央日報』2019年6月4日)。
しかし、米国では他国の司令官の指揮下で米軍を作戦させることは原則的に認められない。その意味では、戦時に在韓米軍が韓国軍司令官の指揮を離れ「支援」に留まり、「韓国軍主導」で作戦が行われる可能性が高まっている。
ただし、米国が韓国に提供する核の傘など戦略資産の統制問題は今のように連合司令部とは別に米国が独自に行使すると予想される。
牙山(アサン)政策研究院安保統一センターのシン・ボンチョル・センター長は「戦作権が転換されても韓国は情報・監視・偵察(ISR)や戦略資産など軍事的に米国に多くのことを頼らざるを得ない」として「韓米同盟の重要性はそのまま維持される」と指摘した。
韓国政府は現政権の任期最後の年である2022年に戦時作戦統制権の移管を終えるという計画だ。
また、米韓の国防長官は連合司令部を(韓国)国防部領内に移転することにした計画を変え、平沢(ピョンテク)の米軍基地ハンフリーズに移すことを確定したと報じられている(同上)。
このように、米韓の軍事的な共同関係は、様々の局面で関係希薄化の動きを見せている。
日米間の共同関係についても、日米防衛協力についての新ガイドラインでは、日本有事の防勢作戦は「自衛隊が主体的に実施し」、米軍は「日本を防衛するため、支援し及び補完する」とされているが、同様の規定が米韓でも合意されている。
米韓軍の戦時作戦指揮権も文在寅政権下の2020年には移管される可能性が高まっている。
そうなれば、米韓の指揮関係も実質的な効力を失い、韓国軍の単独指揮が実現する可能性が高い。米韓連合司令部の平沢移転もその流れに沿った動きと言えよう。
■日本は最悪の事態に備えよ
その平沢を直接攻撃でき迎撃の困難な短距離ミサイルの開発配備能力を、北朝鮮はいま見せつけている。
在韓米軍の撤退は案外近く、日韓の対立関係が改善されないとすれば、核ミサイルを持った反日的な統一朝鮮と対馬海峡で対峙するという事態が、文在寅大統領の在任間の2022年5月までに実現する可能性に、日本は備えておかなければならない。
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2019.07.03
日本に核保有迫る狙いの第3回米朝会談 THAAD無効化で在韓米軍撤退へ、トランプ大統領が大決断
突然実現した第3回目の米朝首脳会談、その背景にある思惑
―THAAD無効化と在韓米軍撤退への第一歩か?―
矢野義昭
G20の余熱が冷めやらない中、6月30日突如、板門店での第3回目の米朝首脳会談が実現した。韓国の文在寅大統領も交え、実質的には米朝韓3国首脳会談ともなった。
なぜこのような呼びかけをドナルド・トランプ大統領は行ったのか、なぜ金正恩委員長はそれに応じたのか? G20での各国首脳会談の直後でもあり、関係国の戦略的な思惑が相互に確認された直後の、突然の動きである。
関係各国の思惑が錯綜する中で、米朝韓の何らかの戦略的利害が一致したことが、背景にあるとみるべきであろう。
温度差のある日米韓の北朝鮮短距離ミサイル発射への対応
諸課題の実質的な進展のない中、米韓両国大統領の融和姿勢が目立っている。
今年2月、ハノイでの米朝首脳会談が途中で打ち切られて以来、米朝関係は再び冷却化したかのように見られた。2018年6月の初の米朝首脳会談以降、現在に至るまで、米朝交渉の本来の目的だったはずの、北朝鮮の「完全、不可逆で検証可能な核廃棄」について、何ら実質的な進展はみられない。
また、ハノイ会談で米側が指摘した、各種弾道ミサイルの廃棄についても、同様に進展はない。今年5月4日と5月9日の2回にわたり、5月25日から28日のトランプ大統領の訪日と日米首脳会談の直前に、北朝鮮は短距離弾道ミサイルの発射訓練を行った。これは国連安保理の制裁決議違反である。
韓国軍合同参謀本部は、当初これを「弾道ミサイル」と発表したが即座に撤回し、5月4日に「短距離の飛翔体」と発表している。この経緯は、韓国の軍と政府の対北姿勢の食い違いを伺わせる。
日・米政府も4日の際はまだ、「飛翔体」と発表していた。日米韓各国政府とも、明らかな国連制裁決議違反となる「弾道ミサイル」との表現を回避し、制裁行動を強いられ事態が悪化するのを回避しようとしたものとみられる。
しかし9日に2回目の発射が行われ、同日、北朝鮮の『労働新聞』は、「金正恩委員長が長距離攻撃手段の訓練開始の命令を下し、成功裏に行われた」と報じた。金委員長は「不意の事態にも対処できるよう、態勢を維持しなければならない」と強調したという(『FNN Prime』2019年5月10日)。
同時に、ロシアの短距離弾道ミサイル「イスカンデル」と、それをコピーしたとみられる韓国の「玄武2B」に酷似した、短距離ミサイルの発射映像を流した。
前日の5月9日トランプ大統領は、非核化交渉について、「彼らは交渉したがっているが、その準備ができているとは思えない」と述べ、早期の交渉再開は難しいとの見方を示していた。
それに対し、米国に交渉再開を督促するような、重ねての北朝鮮の短距離ミサイルの発射だった。
日米両政府は5月10日、忍耐の限界を超えたとの意思を示すかのように、今回は、北朝鮮が9日発射した飛翔体を、「弾道ミサイル」と断定した。
河野太郎外相は、北朝鮮のミサイル発射は「明確に国連安全保障理事会決議違反だ」と述べた。トランプ米大統領も「誰も喜ばない。事態を深刻に注視している」と不快感を示している(『日本経済新聞』2019年5月10日)。
ただし、米国内でもトランプ大統領と強硬派のジョン・ボルトン大統領補佐官(国家安全保障担当)とでは姿勢に食い違いがある。
ボルトン補佐官は、5月9日の発射を国連制裁決議違反として5月25日には非難声明を出している。これに対し、北朝鮮の外務省報道官は同月27日、ボルトン発言を「詭弁だ」と非難し、同氏を「戦争狂」で「一刻も早く消えるべきだ」と酷評している。
他方、ボルトン補佐官の声明の直前、訪日中のトランプ大統領は、米朝間には「素晴らしい尊敬の念」があり、今後も「多くの良いこと」が起こるとの楽観的な見方を示したばかりだった(『AFP』2019年5月27日)。
一見トランプ大統領と食い違いのあるボルトン補佐官の発言だが、計算されたもので、政権内で役割分担をして硬軟両様の構えを示し、北朝鮮に対し交渉での主導権をとろうとする米側の動きともとれる。
5月27日の日米首脳会談では、「両首脳は,最新の北朝鮮情勢を踏まえ,十分な時間をかけて方針の綿密なすり合わせを行い」、「国連安保理決議の完全な履行の重要性を含め,今回も,日米の立場が完全に一致していることを改めて確認した」とされている。
そうすればボルトン発言が米政府の真意ということになる。トランプ大統領の発言は、金正恩委員長を念頭に置いた交渉呼びかけの布石であり、決定権を集中している独裁者の特質を突いた、心理戦の発露とも言える。
他方、韓国政府は、それでもまだ「弾道ミサイル」との断定を躊躇していた。文政権がいかに対北制裁緩和を求めているかが、ますます浮き彫りになった。
この2回の「弾道ミサイル」発射訓練は、日米韓各国政府の対北強硬姿勢の本気度を試し、かつ3国の分断を誘うという、戦略的狙いをもって行われた可能性が高い。日米韓の強硬姿勢の度合いは、日本、米国、韓国の順であり、文政権の融和姿勢が目立った。
新型短距離弾道ミサイルによるTHAADの無効化と在韓米軍への脅威
映像で流された弾道ミサイルの形状は、イスカンデルと類似している。同型であれば、短時間で比較的低高度を飛翔し命中するため、レーダで補足しにくい。
北朝鮮は4発が発射される映像を流したが、韓国側は「2発」と発表しており、全数を捕捉できていたかには疑問がある。
また、イスカンデル型なら、米軍が韓国に配備している最新鋭の弾道ミサイル防衛システムTHAAD(終末高高度防衛ミサイル)でも迎撃はかなり困難とみられる。
これらの情報能力や戦略防空の能力は、最高度の機密事項のため、実態はわかりにくい。しかし、今回のイスカンデル型弾道ミサイルについては、深刻な脅威となるいくつかの兆候がある。
9日に発射されたミサイルは、映像からキャタピラ搭載型であることが判明している。道路以外からも発射可能で、かつ移動式のため事前の発見、制圧が困難である。また、金正恩委員長も強調しているように、即応性も高い。
イスカンデル型なら核弾頭の搭載も可能であろう。なお、北朝鮮の核弾頭の小型化も量産と同様に進んでいるとみるべきであろう。
核弾頭の搭載はできなくても、多数の分離子弾を充填した広域破壊が可能な通常弾頭や、核と並ぶ大量破壊兵器の化学弾頭が搭載されるのは間違いないであろう。韓国軍の玄武2Bも分離子弾型弾頭を搭載している。
このイスカンデル型短距離弾道ミサイル発射を受けるかのように、習近平国家主席は6月27日に大阪で行われた中韓首脳会談の席上、米国のTHAADの在韓米軍配備問題を真っ先に取り上げ、「解決に向けた方策が検討されることを望む」と述べた。
習主席が直接「THAAD」に言及するのは、2017年に北京で行われた韓中首脳会談以来、1年6カ月ぶりだ。韓国政府はこの年の10月、中国に対し「THAADの追加配備は行わない」「米国によるMD(ミサイル防衛)には参加しない」「韓米日同盟には加わらない」といういわゆる「三不」を約束した(『CHOSUN Online日本語版』2019年6月29日)。
今回のトランプ大統領のイニシアティブによる、突然の会談申し入れの背後には、この北朝鮮による、米軍のTHAADを無効化しかつ韓国軍の「玄武2B」に対抗しうるイスカンデル型ミサイルの配備、及び直前の、中国による韓国の「三不」政策再確認という動きに、急遽対抗する必要に迫られたことがあったのではないかとみられる。
非核化やミサイル廃棄をめぐる交渉が実質的進展を見なければ、時間と共に日米韓の戦略的優位性は崩れていく。すなわち、THAADがこれ以上配備できず米韓(間接的には日米韓)の共同訓練もできず、北朝鮮のMD突破可能な新型ミサイルの配備と核・化学弾頭などの増産、近代化と配備が、時間と共に進むおそれがあるためである。
そうなれば、在韓米軍と韓国軍は、しだいに戦略防衛システムを無効化され、中朝の各種ミサイルに対する有効な戦略防衛手段を失うことになる。
特に、中朝のミサイル攻撃の韓国内での最優先目標となっているとみられる在韓米軍は、戦略防空の掩護を失い、米軍人家族も含め、韓国に留まることは危険すぎることになるであろう。
今回のTHAADをめぐる動きは在韓米軍撤退の重大な兆候と言える。
なぜトランプ大統領は突然米朝首脳会談を提案したのか?
今回の3度目の米朝首脳会談は、トランプ大統領のツイッターを通した突然の提案という、トランプ大統領からのイニシアティブにより実現された。金正恩委員長も「前日の午後まで知らなかった」と告白している。
その手法も、外交的な下調整も事前交渉もないまま、SNSを通じた直接呼びかけるという、異例のものであった。
この呼びかけに、金正恩委員長が応じることにより、「1日で」実現した首脳会談である。
懸案事項の実質的な進展は何も見られていない。その間にも、北の核とミサイルの増産配備が確実に進んでいるに違いない。
2017年11月に北朝鮮は、米大陸に確実に届く「火星14」ICBMの発射試験に成功している。その後地下工場などで、ICBMの改良と増産が進められていることは間違いないであろう。
核弾頭についても、『38ノース』は、2015年頃の見通しで、順調にいけば北朝鮮は2020年頃には100発前後の核弾頭を保有するだろうと予測していた。
その後の経過は、順調に行った場合と同じペースで進んでおり、このペースが維持されていけば、来年には100発前後の核弾頭を保有することになるだろう。ICBMの増産も進んでいるはずである。
これらの情報は米国自身が最もよく知っているに違いない。その点を踏まえて、トランプ大統領も行動しているとみるべきであろう。
北朝鮮の核戦力はすでに現段階で、いかなる大国に対しても、数千万人の「耐え難い損害を与えることのできる」最小限抑止水準に近くづいている可能性が高い。
もはや北朝鮮に対する軍事選択肢はとりえず、暗黙裡に北朝鮮を核保有国として遇しなければならない時点に来ているとみるべきであろう。
問われる、核保有を黙認された北朝鮮に対する対応戦略
米国も北朝鮮を核保有国として黙認せざるを得なくなったということ、さらに戦略防衛の切り札のTHAADすら有効性に疑問が出てくることを前提とすれば、トランプ大統領の突然の米朝首脳会談提唱も納得できる。また金正恩委員長との信頼関係をことごとに強調するのも理解できる。
文在寅大統領もそのような米国の本音を承知したうえで、対北融和政策を採っているという説明も可能である。文在寅大統領にトランプ大統領が謝意を示していた。これは、G20の場での米韓首脳会談で文大統領が提案した首脳会談かもしれない。
本当に文在寅大統領の対北融和政策が米国の国益や意向に反しているのであれば、文大統領を政治的に失脚させることも、米国にはできるのではないか。また、文大統領は、今回の会談から排除されるはずである。
今回の会談で印象的だったのは、トランプ大統領が金正恩委員長を自ら出迎え、先に38度線を越えてから、二人で韓国側にもどり会談に臨んだことである。トランプ大統領一流のメディアを意識した政治ショーの色彩はあるものの、その外交的な意味合いは大きい。
金正恩委員長を直接、韓国側の会談場に案内しても良かったはずである。なぜわざわざ自ら38度線を越えて北側に先に行ったのか。これは、世界一の大国の大統領が、米韓共通の敵の地に、自ら赴いたことを意味している。
トランプ大統領は再開に際して、「金氏と再会し、同席できて光栄だ。境界線を越えることができ誇らしく思う」とまで述べている。これに対し金委員長は、「良くない過去に終止符を打ち、米国と共に明るい未来を切り拓きたい」と応じている。
世界一の大国の大統領が、人権無視の独裁者と会えて、「光栄」と表明するのは卑屈すぎるようにも見える。発言の裏には、THAAD問題に端を発した在韓米軍撤退への布石といった、極めて重大な戦略的狙いがこめられていたと見るべきであろう。
今後進む可能性が高まった米韓同盟の空洞化
このようなトランプ大統領の今回示した金正恩委員長に対する融和姿勢は、米韓同盟の空洞化を象徴しているのではないか。一部で報じられているように、今後実務者協議が進み、南北「終戦協定」への取り組みが本格化するかもしれない。
米国がこの北東アジア・太平洋で潜在敵として最も意識しているのは、中国である。在韓・在日米軍もグアムも、中国の核・非核の弾道ミサイル、巡航ミサイルに狙われている。
いわゆる、「接近阻止・領域拒否戦略」により、空母も沿岸から約3,000キロメートルから接近が容易ではなくなり、約1,500キロメートル以内には入れないという状況になっている。
特に韓国は半島国であり、中朝の地上部隊の攻撃の脅威と同時に、両国の核と非核の各種ミサイル戦力に集中的に狙われている。それに対処する切り札が戦略防衛システムのTHAADだった。
しかし、その有効性が、今年5月の北朝鮮の新型短距離ミサイルの配備により低下していく恐れが高まっている。
そうなれば在韓米軍は危険すぎて、家族もろとも半島から引き揚げねばならなくなる。財政上も在韓米軍維持の負担は大きい。在外軍人とその家族の安全確保も重要な政治的要請である。
このことを2018年6月の初の米朝首脳会談後の記者会見でも、トランプ大統領は示唆していた。今回の首脳会談もその延長上の戦略的要請から出たものであろう。
このまま推移すれば、終戦協定締結、在韓米軍特にTHAADの撤退、南北平和協定の締結などの一連のプロセスが、トランプ政権と文在寅政権の下で、かなり急速に進められる可能性は高い。
米韓ともに大統領選を控え、政権としては外交的成果を必要としている。特にトランプ政権はロシア、イランとの対立を抱えており、北朝鮮との関係まで決裂させるわけにはいかないであろう。その点を北朝鮮も冷静に読んでいるとみられる。
北朝鮮が核保有国として黙認された場合に採りうる対中封じ込め戦略
トランプ大統領の戦略はかつてのアイゼンハワー時代の大量報復戦略に似ている。大量報復戦略は、同盟国に核を配備して核の壁をソ連の周囲にめぐらして、即時核報復態勢をとり、通常戦争を含めた紛争を抑止しようとするものであった。
韓国はウラン濃縮、プルニウム抽出技術を持ち、大量の使用済み核燃料棒を備蓄するなど、北朝鮮以上の核兵器開発の潜在能力を持っている。
韓国が核潜在力を核抑止力に転換するかどうかは、韓国自らの政治決定の問題だが、そうしなければ北主導の半島統一に応じるしかなくなるとみられる。それを避けて、自由と民主主義を守るためには、自国の核化は避けられない選択となるであろう。米国も韓国に原子力潜水艦の建造を認めるなど、核化への布石を打っている。
米側も、韓国の核化を黙認し、南北の平和共存態勢を維持し、地域の安定化を図るとともに、朝鮮半島に緩衝地帯を維持することも追求する。それがトランプ政権の真の狙いではないだろうか。
在韓米軍が撤退しても、韓国がその潜在能力を抑止力に転換すれば、核化された南北朝鮮が半島内で暫定的に平和共存することになるであろう。
平和共存が維持されれば、韓国の圧倒的に優位の経済力、開放された社会と民主的政治体制の強みが発揮されて、長期的には北朝鮮の独裁体制を変質あるいは打倒させることも可能になるとみられる。米ソ冷戦の教訓がそれを示している。
韓国防衛は米国にとり、必須の戦略的要請ではない。米国にとり韓国が地政学的にみて戦略的に必須の価値を持たないことは、朝鮮戦争前のアチソン声明でも明らかにされている。
在韓米軍はTHAADともどもいずれ撤退し、米国の防衛ラインは対馬海峡まで下がることになるであろう。
米国としては、日本列島から台湾、フィリピンの第一列島線を確保していれば、中国の太平洋進出を封じこめることができ、現在の軍事技術ではそれ以東の海空域から、大陸や第一列島線以西の目標も有効に打撃できる。
日本も決断しさえすれば、核兵器を3日で持てると米国の専門家は見ている。台湾にも潜在力はある。中国の太平洋進出を封じ込めるように、日本と台湾の核の壁を北東アジアに創ることは不可能ではない。
北朝鮮が核武装し、それが引き金となって北東アジアで核保有のドミノ倒しが起これば、最も困るのは中国である。
北朝鮮の核兵器は、北京も攻撃できる。もはや北朝鮮は中国の言いなりになる衛星国ではない。
その上、日韓台が米国の戦略核とリンクした、自らの自立的な核戦力を持つことになれば、核抑止態勢の信頼性が強固になり、中国の太平洋への侵出は封じ込められることになる。
平時でも、中国の北東アジア唯一の核保有国としての軍事、政治、外交面の威信と影響力は大幅に相対化されるであろう。その意味で、中国を主敵と定めたトランプ政権が、北朝鮮の核化の事実上の黙認に出たとしても、戦略的には合理的判断と言える。
しかし、朝鮮半島からの米国の影響力排除という点では、中朝の利害は一致している。習近平主席が文大統領との会談で「三不」政策を再確認したのも、米国の半島での影響力排除を狙ったものであろう。北朝鮮を影響下に置くためにも中国としては、ここで北朝鮮に存在感を示さねばならなかったとみられる。
いま北朝鮮は米中のどちらに着くかを迫られている。米国としては、何とかして核を持った北朝鮮も自国陣営に引き入れたい、そうすれば半島全域に米中間の緩衝地帯ができ、対馬防衛ラインへの脅威は大幅に低下する。それが米国の対北政策の狙いであろう。
北朝鮮にとっても、在韓米軍が撤退すれば、真の脅威は地続き国境を抱える中国になる。米国はむしろカウンターバランサーとして役に立つ存在となりうる。在韓米軍撤退が視野に入れば、北主導の半島統一に向け、どう北朝鮮の存在感を米国に示すかが、金正恩にとり課題となってくる。
その意味で、今回のトランプ大統領の提案は、金正恩委員長としても歓迎すべきものであった。2度のミサイル発射も、真の狙いは3度目の米朝首脳会談実現だったのかもしれない。
北東アジアの要となる日本の戦略的地位と迫られる日本の自立防衛
日本は、米国の庇護のもと局外者の立場に立っていることはもはや許されない。自国の安全保障上も、地域全体の安定のためにも、米国の北東アジア・太平洋戦略の要として、中国の脅威封じ込めの第一線の立場に立たつことを迫られている。
米国は、長射程巡航ミサイル等を搭載した艦艇と長距離ステルス爆撃機、有人・無人の潜水艦、無人機、無人高速艇などを、主に第一列島線以東の海空域に展開し、グローバルな情報・警戒監視・偵察ネットワークにより、第一列島線を出てくる敵戦力を把握し、遠距離精密火力により各個に撃破するという戦略を、当初はとることになるであろう。
同盟国への本格的な反攻作戦や国土回復支援は海空優勢獲得後になる。この戦略で重要な点は、日本はじめ第一列島線上の諸国が、反攻作戦に出るまでの間、国土国民を自力で防衛できるかどうかという点にある。
その際に日本としては、沖縄南西正面と対馬正面、場合により北方正面の多正面で、同時に深刻な脅威に直面するのは、何としても避けなければならない。外交交渉を通じて、多正面同時対処を避けられる態勢を創らねばならない。
そういう意味では、日本自身にとっても、北朝鮮との平時の外交や経済交流面で、単に敵視して中国寄りに追いやるのは得策とは言えない。拉致問題解決を前提に、経済支援など何らかの方法で、北朝鮮と韓国の平和共存と半島の安定的発展を支えることも考えねばならないであろう。
日米首脳会談では、5月27日、拉致被害者家族とトランプ大統領の面会が実現し、日米首脳は、拉致問題の解決に向け,自らが金正恩委員長と直接向き合わなければならないとの決意を述べた。
また,安倍総理から,条件を付けずに金正恩委員長と会って率直に虚心坦懐に話をしたい旨述べた。これに対し,トランプ大統領から,安倍総理の決意を全面的に支持する旨の発言があったとされている(『外務省ホームページ』令和元年5月27日)。
拉致問題は、日本自らが主体的に解決しなければならない。
近い将来の在韓米軍撤退を前提とすれば、日本は日朝首脳会談開催など、主体的な対北交渉に踏み出すと同時に、対馬正面を含めた自立防衛態勢の強化を急がねばならない。
ブルームバーグは6月25日、「トランプ大統領が日米安全保障条約を破棄する可能性について側近に漏らしていた」と報じた。
続く26日にはFOXビジネスニュースの電話インタビューで、トランプ大統領本人が「日本が攻撃された時、アメリカは第3次世界大戦を戦い、猛烈な犠牲を払うことになるが、アメリカが攻撃されて救援が必要なとき、日本はソニーのテレビで見物するだけだ」と安保条約への不満を公言した(『東洋経済ONLINE』2019年6月29日)。
トランプ大統領の日米安保破棄論は、日本が米国の期待に応えず、太平洋の防壁にならなければ、日米安保条約を破棄して日本を見捨てることになるとの警告ともとれる。
日本はトランプ大統領の発言が、今回の米朝首脳会談の直前に為された点を軽視すべきではない。米国の防衛ラインの対馬への後退に備え、国土国民を自力で一定期間、おそらくは数か月間守り抜ける、自立的な防衛態勢を早急に創り上げねばならない。
自立的な防衛態勢で最も重要な機能は、米国には届かないが日本には届く中・短距離ミサイルの脅威を抑止し核恫喝に屈しないための独自の核抑止力の保持と、奇襲侵攻による占領の既成事実化を許さず郷土と家族を国民が自力で守れるようにするための予備役制度の充実である。
民間力、特にサイバー、宇宙などの先端分野での協力確保や少子高齢化の中で人的パワーを確保するためには、自衛官以外の国民の協力が欠かせない。その意味でも、予備役制度の充実が急がれる。
「軍民融合」は中国のスローガンだが、現在の世界の潮流でもある。その流れに後れをとれば、日本の防衛態勢は相対的にますます弱体化していくことになる。
自立防衛の能力が欠けていると、ミサイル発射等の恫喝に直面するか、侵攻当初に国土の一部を住民もろとも占領され既成事実化を許すことになる。その場合、政府は防衛出動下令すらできなくなるおそれがある。
もし日本が自立防衛態勢を固められず、中朝のミサイル脅威や特殊部隊の破壊工作、核恫喝、サイバー戦・心理戦などの非対称戦、奇襲侵攻などで屈することがあれば、米軍のアジア・太平洋戦略そのものが成り立たなくなりかねない。
トランプ発言の背景には、このような米国からの死活的な戦略的要請があることを、日本は真剣に受け止めねばならない。
逆に日本としても非対称戦や局地的な奇襲侵攻に対処して自力防衛を続けるとしても、継戦能力に限界があることも明らかである。その意味で、米軍と海空戦力を中心として緊密に連携し、なるべく早期の反攻を可能にするような共同防衛態勢を創り上げねばならない。
また、第一列島線全般の防衛態勢の見地からは、米国との連携のみではなく、ともに第一列島線を守る台湾やフィリピン、それを後方から支えるオーストラリアなどとの多国間の相互支援、連携態勢も不可欠になる。
このような日米連携と集団的自衛態勢を可能にするには、日米安保体制の片務性の解消、さらなる集団的自衛権行使の容認、そのための憲法改正も不可欠になるであろう。
日本が恫喝に屈することなく国土、国民を守り抜くためには、核保有に踏み切り、憲法を改正し、通常戦力特に人的パワー確保のために予備役制度を充実し、その上で対等の日米安保条約、多国間との集団的自衛の条約・協定を締結しなければならない。
それがいよいよ迫られていることを実感させたのが、今回の突然の米朝首脳会談であった。
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2019.06.13
核兵器が使われる危機に直面する世界 相互核抑止態勢が不安定化、歯止めの利かない事態に
不安定になってきた相互核抑止態勢
―新たな核軍拡時代の到来、核ミサイルとMDの攻防―
矢野 義昭
冷戦期以来維持されてきた、安定的な相互核抑止態勢がいま、不安定化している。新たな核軍拡時代到来の兆しも見える。このような、戦後の世界秩序を大国間の核戦争による「共倒れ」への恐怖により、安定させてきた核抑止態勢がゆらぎつつある。
核抑止の安定性を切り崩す背景要因
確証破壊能力とは、敵の核攻撃の先制第1撃から生き残った核戦力で、報復第2撃により反撃し、相手国に対して国家として存続できない損害を与える能力指す。
その確証破壊能力を、敵対する核大国が双方ともに保有すれば、どちらが先に先制攻撃を行っても、確実に相手国からの反撃核攻撃により、自国も国家として存続できなくなる。
そのために敵対する核大国はともに、先制核攻撃を行う誘惑に駆られることがなくなり、相互核抑止態勢は安定することになる。
しかしそのような相互確証破壊態勢がいま、不安定になってきている。
その第1の理由は、MD(ミサイル防衛)システムを突破できるとする、様々の新しい核攻撃型の兵器が開発配備されるようになってきたことがある。
2018年3月ロシアのウラジミール・プーチン大統領は、原子力推進のほぼ無限に飛べる核巡航ミサイルと原子力推進の大陸間核魚雷の開発、「サルマート」多弾頭超重ICBMの配備など、米国とその同盟国のMDを突破できるとする新核戦力体系の開発配備を宣言している。
中国は、米露に先駆けてMDを突破できる、極超音速の機動型滑空飛翔体の試験を重ね、来年にも配備するとしている。
第2の理由として、宇宙の軍事利用の進展がある。
「宇宙条約」第4条では、「核兵器及び他の種類の大量破壊兵器を運ぶ物体を地球を回る軌道に乗せること」及び「これらの兵器を宇宙空間に配置すること」は禁じられている。
しかし条約に反し、宇宙空間から直接地球表面の目標を攻撃できる、各種の兵器システムの開発配備が進んでいる。
また、その結果既存の各種衛星が破壊あるいは機能マヒを起こし、ICBMなどが誘導できなくなり、核抑止機能が不安定になる恐れが高まっている。
旧ソ連は1968年、米国は1985年、中国は2007年に衛星破壊実験を行っている。2019年3月にはインドもこれに続いた。
ロシアは、2016年に宇宙を拠点としたMDの配備を宣言し、2017年3月には、宇宙空間から核攻撃できる無人の宇宙往還機も開発していると発表している。
中国は「天空一体」を唱え、戦略支援部隊を編成し、宇宙の軍事化を進めている。衛星に対するレーザー攻撃の実験を繰り返しており、宇宙ステーション「天宮」にはレーザー兵器を搭載するとみられている。
第3に、米中露の核戦力体系の非対称性という問題がある。
ドナルド・トランプ政権の下で2018年に出された『核態勢報告』でも、短距離の低出力核をめぐりロシアが一方的に有利な態勢にあること、INF条約に拘束されない中国が西太平洋などで中距離核戦力の一方的優位を高めつつあることが、深刻な脅威ととらえられている。
トランプ政権は核兵器の近代化に最優先で予算を配分し、低出力核の増加配備、核弾頭とその運搬手段の近代化を加速させるとしている。またロシアのINF条約違反を理由に、INF条約からの撤退を表明した。
2021年2月まで効力を持つ新STARTについても、『核態勢報告』では「取り決めの順守、予測可能性、透明性」が再度確保され、「取り決めの結果が米国、同盟国や友好国の安全保障を高めるものである限り、軍備管理の機会について考慮する用意がある」との、留保姿勢を示している。
第4に、北朝鮮やイランのような新しい核保有国またはその可能性のある国が増加していることも、核抑止態勢をより複雑にし、見通しを難しくしている。
北朝鮮の核ミサイル問題をめぐり首脳会談は繰り返されているが、実質的な進展はみられていない。トランプ政権は、イランの核合意見直しを唱えている。
これらの一連の要因が相乗効果を発揮し、核抑止態勢全般が世界的に不安定になってきている。その脅威は、世界秩序を力で維持してきた、最大の核保有国でもある米国の、内向き姿勢への転換の大きな背景要因の一つになっている。
オバマ、トランプ両政権は「世界の警察官」としての役割放棄を表明している。
MDや前方展開戦力を同盟国に配備していても、支援する衛星システムなどをマヒさせて、あるいは超音速の機動型弾頭によりMD網を突破して、直接米本土を攻撃できる兵器システムの開発配備を中露が進めている。
さらに中露の周辺国に対する非対称の核脅威、北朝鮮などの新たな核保有国の登場など、これまでの核抑止態勢は不安定になってきている。
このため米国としては、米本土防衛への直接的脅威への対処を最優先しなければならなくなった。
それと同時に、同盟国に直接的脅威を与えている中露朝の中距離核、短距離核にどう対処するか、拡大抑止をどう維持するかも問われている。日本など米国の同盟国で、中露に隣接する諸国にとっては、国家安全保障の根幹に関わる深刻な脅威となっている。
米国が、敵対的な核大国として注目しているのはロシアと中国である。両国の核戦力とMD突破戦力の脅威に対し、トランプ政権は、核戦力の増強近代化、特に低出力核の増強、INF条約からの脱退などの対応をとろうとしている。
これに対して、トランプ政権に批判的な立場から書かれた戦略論を、以下に紹介する。
出典は、パトリック・タッカー『核兵器の予測困難性と危険性の高まり』(“Nuclear Weapons Are Getting Less Predictable, and More Dangerous,” by Patrick Tucker Technology Editor, Defense One,
https://www.defenseone.com/technology/2019/05/everyones-nuclear-weapons-are-getting-less-predictable-and-more-dangerous/157052/(as of June 1, 2019))である。
ロシアの超音速ICBMによる米国の核攻撃警戒システムの無効化
2017年5月9日ロシアは、ナチズムに対する戦勝72周年記念日に、「トーポリM」ICBM(大陸間弾道ミサイル)を登場させた。このICBMは移動式で弾頭はより小型化されていた。そのため米国防総省は、追跡システムの性能向上を迫られた。このように、「トーポリM」の登場は、核兵器による攻撃の予測可能性を低下させた。
2019年5月13日の米ロ外相会談で、マイク・ポンペオ米国務長官とセルゲイ・ラブロフロシア外務大臣が会談した。
両者は、中国も含めた新しい核兵器についての包括的条約締結の可能性について協議した。
同時にポンペオ長官は、ロシアの新型の核兵器に対抗するため、米国は最新型のミサイルに搭載した新世代の核兵器の開発を進めていることも表明した。
もしもトランプ政権が再交渉に失敗したならば、世界はここ数十年来見られなかった、核対立をめぐる高度の緊張状態に置かれることになるとみられている。
なぜなら、これらの新型兵器は核の予測可能性を損なうことになるからである。
核兵器時代の始まったときから、戦略爆撃機、ICBM、SSBN(弾道ミサイル搭載原子力潜水艦)の3本柱からなる戦略核兵器システムにより、核戦争の開始の様相については、共通の認識が核大国間では共有されてきた。
敵のICBMの自国国土への接近により、敵の第1撃が始まったことを、お互いに認知でき、ICBMの弾頭が到達する前に、対抗策をとることができた。
しかしロシアが計画に着手した、従来よりも機動性の優れた「超音速兵器」と称されるICBMは、そのような対応を困難にするであろう。超音速のICBMはマッハ5以上で飛行するため、米国側の防御に新しい課題をもたらす。
米統合参謀本部副参謀長のポール・セルバ空軍大将は、今年4月、「もしも敵のICBMがハドソン湾の北端をマッハ13で通過するとすれば、残存した速度で米大陸の48州とアラスカ全土を攻撃できるだろう。左右どちらにも誘導でき、攻撃目標を全米本土とアラスカのどこにでも選定できる。それは恐るべきことだ」と語っている。
そうなれば、米国の指導者たちは、文明の終焉になりかねない最後の死活的な数分間に、どのような兵器が自国に向かってきているのか理解するのが、より困難になる。
セルバはさらに以下のように述べている。「現在の我々の兆候把握と警戒の態勢は、ミサイルから切り離されたあと、重力の慣性軌道に従いながら、比較的ゆっくりと機動する再突入弾頭に対処することを基本的前提にしている」。複数の再突入弾頭は「火の玉」になり、それにより「我々は攻撃されていることが分かる。そして、あるレーダが再突入弾頭の一つを捕捉すれば、その再突入弾頭がどこに向かうかが分かる」。
これまでのICBMなら、この二つの地点のデータから「合理的な確率」をもって、どこに着弾するかを予測できた。「そのことにより我々は、もしも大量攻撃を受けているならそれに対応し、もしも受けていないなら対応しないという決心をするために必要な十分な時間の余裕を、核作戦指揮統制機構に対して与えることができた。しかし超音速ICBMは、そのような兆候把握・警戒システムを破り始めている」。
その対応策として国防総省は、機動型のICBMを追尾するための、新しい低高度地球軌道衛星のネットワーク打ち上げに期待を寄せている。また国防総省は、自らの超音速兵器の開発を進めており、エンジンの地上試験が今年後半に予定されている。
低出力核兵器の開発配備の必要性とその効果
もう一つの予測のつかない課題が、出力可変式または低出力の核兵器の問題である。米国科学者連盟のハンス・クリステンセンによれば、ロシアは2,500発のこのような小型核を保有しているとみられている。
ロシアのドクトリンによれば、ロシアは小型核兵器を、戦術的勝利を確実にするために、そうでなければ通常戦争で終わる戦場でも、使用することを考えている。
その理由は、米国は、近隣の街を破壊することになる大型の核兵器を使用して反撃しようとはしないであろうと、ロシア側がみていることにある。米国防総省は、このことを「エスカレートさせないためのエスカレート(escalate to de-escalate)」ドクトリンと呼んでいる。
米国は自らの、新世代のより小型の核の製造を開始している。その理由は、2018年の『核態勢報告』にも示されているが、すでに今年1月以降、組み立てラインから新小型核は製造されている。
「限定された数の低出力核により、米大統領には、『もしもロシアが我々を低出力核で攻撃するなら、我々には本質的にエスカレーションを招かず安定化させられる選択肢がある』と応じられる、選択肢が与えられる」とセルバは述べている。
しかし同時にセルバは、低出力兵器には超音速兵器と同様のあいまいさがあるとの注意も喚起している。
米国はロシアの兵器開発に対して、他のいくつかの鍵となる動きで対応してきた。
航空機搭載型次世代巡航ミサイルの製造、新型の敵地侵攻能力を持つ爆撃機のノースロップ・グラマンへの発注、一部の潜水艦発射弾道ミサイルの核出力の低減、核弾頭搭載可能な海中発射巡航ミサイル再展開の検討などである。
海軍分析センター(Center for Naval Analysis: CNA)の今年3月の報告によれば、「この一連のシステムは米国に、ロシア全土の目標、必要とあれば展開したロシア軍に対して、様々の威力の限定的対処の選択肢による脅威を与えることを、可能にするであろう」。
国防総省の高官によれば、この新しいSLCM(潜水艦発射巡航ミサイル)が、低出力核として追加されるか、または軍備管理上の合意に従い現在のミサイル・爆弾と換装されることになる。
核弾頭の数はこれまでほど重要ではなくなる。米国としては低出力核の数でロシアと競うつもりはないし、そうする必要もないとされている。多くのあいまいな兵器を保有する利点の一つは、すべてのミサイルと爆弾の相手に対する脅威度が上がるということである。
セルバは、低出力核爆弾について、「彼らは我々よりも数多く保有しているのは事実だ」。「しかし我々はその脅威に対する答えを持っている。我々の選択肢の一部としてそれを持っていることが重要なのだ」と語っている。
他方、核脅威イニシアティブ(Nuclear Threat Initiative: NTI)の世界核政策計画副代表のリン・ルステンは、SLCMでもこのあいまいさの問題は適用できると語っている。「我々は通常型のSLCMを我々の通常の戦争に多数使用している。もしも我々が、核SLCMを使用し始めたなら、相手は、いつこちらがその1発目を使い始めるのか、何が自分に向かってくるのか、それがどこに向かっているのかについて、本当に判別できるだろうか?」と不確実性の増加の問題を問いかけている。
中国を巻き込んだ新START(戦略兵器削減条約)再交渉の追求とその可能性
新しい兵器の導入は、核戦略に新しい不確実性をもたらすことになる。このため、トランプ政権の対応は主に、既にある軍備管理合意を破棄し、別の新たな合意にも言質を与えないままにしておき、第3の選択肢を提案するというものだった。すなわち、中ロと米国の3国の間での新たな包括的な核兵器に関する合意を提案することだった。
ポンペオ長官はラブロフとの会談の後、以下のように述べている。「トランプ大統領は国家安全保障のチームに対して、伝統的な米ロの枠組みを超えて他の国も含め、もっと幅広く軍備管理交渉を考え、もっと幅広い兵器システムを含めることを命じた。大統領は、米国民に対し真の安全を保障するために、より厳格な軍備管理を要求している。我々はこれらの目標を達成できるし、我々は共に協力し、できれば中国も含めることが重要である」。
しかし専門家たちは、北京はそのような合意には関心を示していないと述べている。
その理由の一つは、中国の核兵器の規模が米ロよりもはるかに小さいことにある。ただし中国は近年、SSBN艦隊を展開し、極超音速飛翔体の分野では米国よりも進んでいる。
「中国の長年の政策は、ひとたび米ロが、大幅で非可逆な削減を完了し、核兵器の第1撃使用の権利を放棄するならば、そのような(軍備管理交渉の)過程に応じるであろうというものである」と、CNAは報告している。
また同報告は、北京には、軍備管理条約が機能する上で必要な、ある種の透明性や検証についての合意に服する意向もないとしている。
また、「中国の歴史においては、不透明であることは、その小さな核戦力の残存性に大いに寄与するものとされてきた。中国は、米国にはより強大な核大国として、その能力についての透明性を示す義務があるが、中国は、その規模、構成、地理的な位置、核攻撃計画などの細部を開示すれば、作戦上の脆弱性を生むことになるので、あいまいにしておく資格があるとしばしば主張している」と述べている。
多くの軍備管理交渉の専門家たちは、米国にとり、この極めて予測しがたい将来を導くために採りうる、最初の重要な段階は、新STARTを拡大することであると述べている。
セルバ自身すら、そのような拡大を推奨する意見を公にする傾向にあり、戦略戦力についての既存の枠組みを維持できる条約的枠組みが、多くの面で米国にとって利益になると語っている。
「条約は条約である。条約の拡大が本当に米国の利益の増進につながるのか? それが我々が問いかけるべき唯一の疑問である。もしも、我々が条約の拡大を選択しなければ、計算可能な一連の数値のない(核戦力の数が互いに読めなくなる)世界になるだろう。それが我々の国益につながるだろうか? それこそ、今後10年以内に我々が議論しなければならないと、私が信ずる点である」と彼は述べている。
CNAの報告ではさらに、条約は、非効率と不知、究極的には予測不可能性に対する防壁であると述べている。
「新STARTによる協力的な透明性なしには、米国の情報コミュニティは、より多くの資源をロシアの戦略核戦力に注がねばならなくなるが、それでも洞察力と信頼性のより劣った分析評価しか得られなくなるだろう」。
「米国は、衛星、技術手段などの、乏しい国家技術手段を、他の任務から振り変えるための機会費用を払わねばならなくなる。ロシアの防衛当局者も、米国が新STARTに違反していないかを確認する能力を失い、より不確実性が増す中で行動することになる。米露ともに、相手国の正確な弾頭の水準に関する、同程度の信頼度を持った評価能力を、持てなくなる。その結果、最悪のケースの計画も蓋然性が増すことになるだろう」と述べている。
政府の国内での政策論に対して、一部の議員が怒りを高めている。上院外交委員会は軍備管理・国際安全保障担当次官のアンドレア・L・トンプソンの証言を聴聞した。
彼女は、新STARTの再見直しは国家にとり最善の国益とは言えない、政府はその成り行きをみるべきだと述べた。しかし彼女は、詳しい説明は避けた。
民主党ニュージャージー州選出ボブ・メネンデズ上院議員は、彼女に「もしも新STARTの期限が切れた場合、米国は数百発どころか、それに加えて数千発の核弾頭を米国に向けることになるのではないのか?」と質した。
トンプソンは、それはロシアにとっては良い質問だが、仮定の質問に答えるつもりはないと応じた。メネンデズは激怒し、「それは仮定ではない。もしも我々が、彼らが何をしているか検証できなければ、起こりうることだ」と述べた。
新STARTが崩壊すれば、中国もまた不可測性が高まるのに備えて、より攻撃的な核態勢をとるかもしれない。
カーネギー・ツィンホア世界政策センターのカーネギー核政策計画フェローのトン・ツァオは、以下のように述べている。
条約の失効は「中国の米ロの戦略核戦力についての不確定性を高めることになり、中国の核兵器の増強に対する米ロの懸念を強めるであろう。第2に、透明性の欠如により、米ロの核兵器は、透明性のある場合よりも、より迅速に増強されるであろう。その結果、中国は両核大国の攻撃的な意図が高まっていることによる増強とみなすであろう」。
今後の見通し: 軍拡競争の始まりと核をめぐる緊張の高まり
不確実性が増大するにつれて、誤解もさらに危険になる。米国は状況を、不完全なレンズを通して見ると信ずべき理由がある。
米国には、中国は3国間の軍備管理に何らかの関心を持っているとみる見方がある。
ロシアは「エスカレートさせないためのエスカレート」に関心があるという見方もある。
国際危機対処グループ欧州・中央アジア部長のオルガ・オリカーのような一部のロシアの専門家は、そのような見方は、ロシアの2017年の海軍ドクトリンを誤読した後に、西側が夢見ている作り話だとしている。
「モスクワが信じ続け、ロシアの将軍たちが個人的会話の中で強調しているのは、いかなるNATOとの通常戦力による紛争でも、「エスカレーションしない(de-escalation)」のではなく、急速にエスカレーションし、全面核戦争に至るリスクを伴う。それ故に、それはいかなる代価を払ってでも避けなければならない」と、彼女は2月に書いている。
むしろ、米国が新しい低出力核、すなわち、多くのことをロシアのせいにする「エスカレートさせないためのエスカレート」戦略に力点を置けば、抑止のバランスが崩れ、低出力核増強の提案者の意図とは逆に、潜在的な危機の引き金を引くことになるかもしれない。
ミカエル・コフマンは、CNAの科学研究者だが、彼は「エスカレートさせないためのエスカレート」という議論は、ロシアの戦略ドクトリンについてのより基本的な真実をあいまいにしてしまうとしている。
「ロシアは、米国とのある戦争が通常戦争のみで終わりうるとの主張を一度も受け入れたことがない。したがってロシアの核戦略は、規模の変更が可能な核兵器の使用という、堅固な基礎を有している。そのことは、力の誇示、エスカレーション管理、戦闘、もし必要なら戦争の終結という各段階の、すべての基礎となっている」と、彼は『ディフェンス・ワン(Defense One)』に述べている。
「その問題の核心は、米国防総省が、核兵器は、通常戦争においては抑止することのできる、ある種の巧妙な仕掛け(gimmick)だが、実際には、ロシアとの通常戦力のみで終わる戦争という見通しは、最初からある程度の限界があると、信じていることだ」と彼は述べている。
肝心かなめなことは、以下の点である。米国とロシアと中国は、他国の意図について深刻な誤解をしながら、核戦力についてのるかそるかの議論に入ろうとしているのかもしれない。新たな交渉への努力が失敗に終わり、新STARTが再承認されなければ、核をめぐる緊張の高まりと不確実性の増加という代償を払うことになるだろう。
NTIのルステンは、軍拡競争はすでに始まっていると信じている。
「我々は、いまの趨勢が招く、これから5年後の世界に居たいとは思わない」と彼女は述べている。
まとめ: 評価と対応
以上のパトリック・タッカーによる、核兵器の予測困難性と危険性の高まりに関する論文では、まず、中露の超音速の機動型ミサイルに対する危機感が率直に述べられている。
セルバが具体的に述べているように、このような新型ミサイルに対しては、従来の目標捕捉、警戒監視システムでも、弾道ミサイル迎撃システムでも、もはや対処できない。
ロシアが配備しようとしている、原子力推進の巡航ミサイルへの対処でも、同様の懸念が表明されており、同様の対応策が必要になる。
目標捕捉や警戒監視については、低高度地球軌道衛星のネットワークの必要性が述べられている。それには多数の衛星を管理統制しつつ、相互間の指揮統制・通信・情報ネットワークを維持しなければならない。
また低軌道衛星は撃墜されやすく、平常時も摩擦熱で落下しやすく寿命が短い。このため、予備衛星の迅速な打ち上げ能力も求められる。
迎撃システムとしては、電磁パルス・レールガン・高出力レーザーなどの指向性エネルギー兵器の開発配備が不可欠になっている。
中露は対衛星攻撃能力も高めている。これらの新たな宇宙空間での脅威に対処するためには、宇宙軍の創設が必要になる。米中ロとも宇宙軍に匹敵する軍種を創設している。
日本も指向性エネルギーによる迎撃システムの開発配備を急がねばならない。
また宇宙軍に当たる新たな軍種の創設も必要であろう。その際には、防衛省自衛隊のみならず、宇宙開発関連の他省庁やJAXA、民間の宇宙関連企業の協力が欠かせない。また通信、情報、対情報、サイバーセキュリティの機能も併せ持つ必要がある。
上記論文では、ロシアの低出力核の優位に対してトランプ政権がとっている、低出力の核兵器の増強と再配備という対応策については、予測が困難になり不確実性が増し、核抑止の安定性が損なわれるとする批判を重点的に展開している。
特にロシアは、通常戦力による紛争でも核兵器を使用することをドクトリンに組み込んでおり、低出力核の配備はエスカレーションの危機を招きかねないとの警告を発している。
このような警告は、かねてから主張されている点であるが、ロシアが2,500発の低出力核を持ちながら、米国が300から500発程度の低出力核しか保有していないという現状を踏まえれば、現状の危険性の方がより大きいとみるべきであろう。
なぜなら、米ロ間の非対称性が、ロシアの低出力核使用への誘因を高める恐れがあり、エスカレーション・ラダーにおける優位性の欠如が抑止の破綻を招きかねないからである。
この問題は、現に存在するリスクであることから、これ以上の格差拡大を許さず抑止力を高めるという意味では、緊急性も合理性もあると判断できる。将来の中露の対抗策に伴う、予測されるリスクよりも対処上は、当然優先されるべきであろう。
中国を巻き込んだ新STARTの再見直しについては、中国自身にとり、新たなINF条約や戦略兵器削減交渉に参加し、自らの戦略的自由度を制約することが戦略的利益になるとはみられない。
また、文中に述べられている核バランスの均衡や米ロによる核先制使用放棄の保証といった条件は、当面満たされそうにはない。
中国が、軍拡の経済負担に耐えられず軍縮が避けられなくなる、あるいは中国が、米ロに対する相互抑止の安定性を求めて核軍備管理の必要性を痛感するといった情勢も、当面はありそうにもない。
いずれにしても、中国が核軍備管理に応じる可能性には乏しい。そうであれば、米国も、INF条約からも脱退し、新STARTの更新にも安易に応じないで、自らの核軍備拡大の自由度を確保して、核戦力の優位をまずは回復すべきだとする、トランプ政権の政策の方向性は正しいと評価できる。
米国がINF条約からの離脱など、条約上の制約が解かれることになれば、日本も、「非核三原則」の見直し、核SLCMの再配備容認など、米国の新たな核抑止態勢への転換に連動した対応について、米国側と協議に入る必要が出てくるかもしれない。
世界の核抑止態勢は、MDの有効性の低下、宇宙の軍事化、低出力核の増強とINF再配備、新たな核軍備管理交渉をめぐる駆け引きなど、米中露間の新たな核軍拡と核態勢、核交渉をめぐる確執の中で、大きな転換点を迎えている。
日本も、核抑止力を維持向上するためのあるべき態勢について、国家安全保障の根幹に関わる問題として、情勢の変化を見据えつつ、主体的かつ真剣に検討し、態勢を見直さねばならない時代になっている。
JBpress(https://jbpress.ismedia.jp)からの転載ですので、無断転載を禁じます。
2019.05.08
米国から集中砲火を受ける中国の半導体産業 30年前の日本を徹底研究、同じ轍を踏まない「攻囲突破」を模索
中国チップ産業の分析
―中国チップ産業の競争と攻囲突破―
矢野義昭
米中貿易戦争は長期化の様相を見せ始めている。米中両政府は2018年12月の首脳会談で貿易戦争の「休戦」で合意し、米中で交互に閣僚協議を続けてきた。
トランプ大統領は2019年4月上旬の閣僚協議の際、米中が合意できるか「今後4週間で分かる」と発言した。もし閣僚間でまとまれば合意文書の詳細を詰めたうえで、5月中にも首脳会談を開いて署名する可能性があると報じられている(『日経新聞電子版』2019年4月24日)。
しかし、米国が課した追加関税の扱いなどをめぐり、対立点は残っており、米中首脳会談までに溝が埋められるかは微妙な状況にある。
米中貿易戦争の根底には、米中間の覇権争い、特に軍事、民生両面の今後の発展を左右する、最先端通信電子分野をめぐる対立がある。
高まる米国の対中脅威感とその根源となる中国先端通信電子産業への締付け
2018年10月マイク・ペンス米副大統領は、ハドソン研究所で以下の演説を行い、中国に対する事実上の宣戦布告に等しい、脅威認識を披歴している。
「過去17年間、中国のGDPは9倍に成長し、世界で2番目に大きな経済となりました。この成功の大部分は、アメリカの中国への投資によってもたらされました。また、中国共産党は、関税、割当、通貨操作、強制的な技術移転、知的財産の窃盗、外国人投資家にまるでキャンディーのように手渡される産業界の補助金など自由で公正な貿易とは相容れない政策を大量に使ってきました」と、具体例を挙げ、中国の不公正で不当な貿易政策、国内産業補助政策を非難している。
その結果、「中国の行為が米貿易赤字の一因となっており、昨年の対中貿易赤字は3,750億ドルで、世界との貿易赤字の半分近くを占めている」状況になった。
その中国の経済的台頭の背景には、中国共産党の一貫した最先端産業育成策がある。すなわち、「共産党は「メイド・イン・チャイナ(Made in China)2025 」計画を通じて、ロボット工学、バイオテクノロジー、人工知能など世界の最先端産業の90%を支配することを目指しています。中国政府は、21世紀の経済の圧倒的なシェアを占めるために、官僚や企業に対し、米国の経済的リーダーシップの基礎である知的財産を、あらゆる必要な手段を用いて取得するよう指示してきました」。
そのためには中国共産党は手段を選ばなかった。「中国政府は現在、多くの米国企業に対し、中国で事業を行うための対価として、企業秘密を提出することを要求しています。また、米国企業の創造物の所有権を得るために、米国企業の買収を調整し、出資しています」。
その結果は国家安全保障上の脅威をもたらしている。「最悪なことに、中国の安全保障機関が、最先端の軍事計画を含む米国の技術の大規模な窃盗の黒幕です。そして、中国共産党は盗んだ技術を使って大規模に民間技術を軍事技術に転用しています」。
そのようにして得た資金と技術を使い、中国はアジアその他の地域で最大の軍事的脅威になっている。「中国は現在、アジアの他の地域を合わせた軍事費とほぼ同額の資金を投じており、中国は米国の陸、海、空、宇宙における軍事的優位を脅かす能力を第一目標としています。中国は、米国を西太平洋から追い出し、米国が同盟国の援助を受けることをまさしく阻止しようとしています」。
しかし、「彼らは失敗します」とペンス副大統領は断言し、中国の経済的、技術的台頭と、それがもたらす軍事的脅威、覇権拡大を断固阻止するとの姿勢を明確にしている(以上のペンス演説日本語翻訳は『海外ニュース翻訳情報局』(2018年10月9日掲載、2019年1月20日更新https://www.newshonyaku.com/8416/
as of April 28, 2019による)。
このようなドナルド・トランプ政権の断固とした対中対決姿勢は、最大の同盟国群であるNATO諸国に対しても、国防費増額要求とともに、2019年4月11日のNATO創設70周年においても明示されている。
ペンス副大統領は同大会で演説し、今後数十年の間にNATOが直面する最大の課題として、「中国の台頭」への対応を挙げ、中でも「中国の5G技術の課題」への対応を、「一帯一路の提供資金の課題」とともに列挙し、「我々は解決しなければならない」としている。
以上のトランプ政権による中国台頭阻止政策の最大の眼目が、民生分野の経済・技術競争の死命を制するとともに、最先端の軍事技術の核心技術ともなる、5Gに象徴される最先端通信電子産業であることは明らかである。
すでにファイブアイズと言われる英語圏諸国(米英加豪、ニュージーランド)は、米国政府が主導し、ファーウェイ・テクノロジーズ株式会社(华为技术有限公司: Huawei Technologies Co. Ltd.)が5Gネットワーク構築に協力することを禁止している。ただし、英国は一部のファーウェイ製品を使用することを否定してはいない。
また、「セキュリティ上の理由」から米国政府機関がファーウェイ製品を使用することも禁止したため、ファーウェイはこの決定に異議を申し立てる訴訟を起こした。
また2018年12月には、カナダ当局が米国の要請に応じ、ファーウェイの孟晩舟・副会長兼最高財務責任者(CFO)を、イランに対する制裁措置違反の容疑で拘束し、米国が同CFOの身柄引き渡しを要求するという事件も生じている。
米国の中興通訊(ZTE)制裁に対する中国側の深刻な危機感
2018年8月に陳芳、菫瑞豊編著『中国チップ産業の分析―中国チップ産業の競争と攻囲突破―(陈芳,董瑞丰编著『”芯”想事成: 中国芯片产业的博奕与突围(Deciphering China’s Chips Industry)』北京、人民邮电出版社,2018年8月)という本が出版されている。この本が出された背景には、米国が突然仕掛けた対中経済・技術戦争に対する中国側の深刻な危機感がある。
同書の「前言」に、2018年4月16日に米国商務省が、中興通訊(Zhongxing tongxun: ZTE)に対して、突然制裁命令を宣告したことを冒頭にあげ、これほど、中国の「チップ(芯)」産業が生死をかけた速度を競う場となり、緊迫した時はないと危機感を表明している。
また、米国の狙いは、世界第4位の通信設備製造企業を狙い撃ちして、一撃で打倒しようとすることにあると、非難している。
さらに、ZTEの事件は孤立したものではなく、このような事件は今後も起こるとし、その背景には、中国のチップ(芯)が戦略的な競争の場において唯一最大の重圧がかかっている点だからだと指摘している。そのような観点から、「我々は、幅広くグローバルな視野と歴史の大きなトレンドに立脚して、観察しなければならない」と、本書の目的を明確にしている。
特に、チップ技術は現代の工業化と情報化の社会における基礎をなすものであり、この「首根っこ」となる技術を押さえられるわけにはいかず、自主開発が不可欠であると強調している。
また、以下のような警告も発せられている。
「ZTEの事件以降、中国のネットでは、中国のチップは「夢幻の始まり」と認識し、始めるにはまだ遅くはないが、ひたすら建設に埋没しなければ、米日韓に劣らず発展できるかどうかはわからないとの意見が出ている。
日進月歩の技術進歩がなされ、膨大な工業システムに直面している現在では、一人の「技術英雄」が出ても優位に立つことはできない。過去数十年間で企業の生産条件も組織も深刻な破壊を受けてきた。
産業の発展は科学の法則に背き、その上国際的な技術の封鎖と移転禁止もある。我が国のチップ産業の基盤は分散的であり、手工業的な生産態勢であり、国際的なレベルとの格差を縮めるのは容易ではなく、その格差は正に拡大する趨勢にある。
技術進歩はたちまち覆り、ひとたび後れをとると、たちまち大きく引き離されることになる」。
このように中国の現状認識はきびしく、まだまだ基盤は脆弱で、生産態勢も遅れており、ここで後れをとると、また大きく引き離されるのではないかとの危機感が高まっていると言えよう。
中国側の米国が「科学技術戦」をしかけてきたとの認識
同書の第1章では、米国がなぜZTEを狙い撃ちにしてきたのかという歴史的背景をまず分析し、それが米国の「科学技術戦」の表れであるとの認識を示している。今、巨大な隕石が湖に衝突したときのように、先端科学技術分野における巨大な激浪がひろがろうとしているとの危機感を訴えている。
競争は熾烈で、避けようがなく、優位にあるものはあらゆる力を尽くして優位を守ろうとし、劣勢なものは全力で追いつこうとする。避雷針に瞬時に雲の中の静電気が集中するように、短時間の間に激変が生ずると、その競争の熾烈さと盛衰の激しさを訴えている。
ZTEは、毎年2億個程度のチップを米国のインテルなどの企業に提供してきたが、2~3割の部品を米国のメーカーからの輸入に依存しながら、現在の国際的な優位を築いてきた。中国国内メーカーには代替品は生産できず、在庫は2カ月程度しかなかった。
そのようなときに、4月20日午前にZTEは米国の商務省から制裁を受けたことを表明し、株価は急落、米誌「フォーブス」は数週間以内にZTEは破産申請をするだろうと予測するような状況になった。
このような狙い撃ちにあった背景に5Gにおける、ZTEとファーウェイの優位があったと指摘している。
ZTEに対する米国の調査が始まったのは、2012年3月に、米国の情報特別委員会が、ZTEがイランとの交易制裁措置に違反している嫌疑があるとしてからである。その後、2016年3月に米商務省が、ZTEがイランに対する米国の輸出制限法に違反していると公表した。
5Gの移動通信技術については、世界中の国がかつてない関心を寄せている。中でも米国は3G、4Gでの劣勢を挽回するため、2016年7月米国連邦通信委員会が5Gのネットワーク周波数資源の配分を世界に先駆けて行っている。ウィルバー・ロス米商務長官は、5Gの移動通信ネットワークを建設することは、トランプ政権の重要な任務であると表明している。
ZTEは、5G領域において持続的な発展を遂げ、世界の通信電子設備市場の13パーセントを占有し、パソコンでは米国内で4番目の売上高をあげ、中国国内A株上場企業中でも研究開発投資の高い企業となり、全世界の150の国と地域に事業を展開するに至った。
他方、ZTEが対イラン制裁違反に問われていた問題については、2017年3月ZTEと米政府は和解協議結果に署名し、ZTEは8.9億ドルの罰金を支払い4人の高級幹部の解雇を承諾した。
ただし和解協議内容では、3億円の追徴金と部品の使用禁止については、暫定的な緩和の条件がつけられており、その条件の履行状況をみて追加制裁を発動することになっていた。
2017年末、ZTEが5G戦略の布石として取得した特許は2000件に上った。しかしこの肝心な時に「正確に」狙いを定めて、米国政府は銃口を向けてきたと中国側はみている。2018年3月、米商務省産業安全保障局は、35名の労働者に対するボーナスの支給額減額が暫定緩和条件に違反するとの理由で制裁を発動した。
以上が、中国側のZTE制裁発動に対する受け止め方と説明である。すなわち中国側は、米国は2012年春頃からZTEに対する制裁発動の口実を探し、5G市場奪還にとり最良の機を見て、制裁発動に出たと見ている。
さらに第2弾の措置として、2018年12月のカナダ政府によるファーウェイの孟晩舟拘束が、米国の要請によりなされたと言えよう。
中国側も表明しているように、その打撃は深刻であり、中国側は、かつてない規模の危機拡大に直面していると認識している。
ペンス副大統領の宣告通り、すでに米中貿易戦争は発動され、その焦点の一つが5G市場の支配権をめぐる、米中間の経済・科学技術面での優位の争奪戦であると言える。
日本の轍を踏むまいと対米警戒心を強める中国
中国は、日本の轍を踏むまいと、その教訓を学ぼうとしている。特に、30年前の日本の立場と現在の中国の立場は類似しているとみている。
日本は当時、米国に対する最大の自動車輸出国であった。このために米国の自動車産業では1980年代初めに6万人の失業者が生まれ、五大湖周辺地区は「ラスト・ベルト(錆び付いた地帯)」になった。
日本のチップ産業も急速に台頭し、インテルの製品価格は下落し財務状況が悪化した。1986年には世界の半導体企業の売上高上位3社は、NEC、日立、東芝の日本の3社が占めた。このような状況に対し、米国は日本を「経済的脅威」ととらえ、保護貿易主義の傾向を強め、対日貿易制裁等の手段をとるようになった。
80年代に入り日米貿易摩擦は激化し、米国は日本に対し、24回にわたり「通商法301条違反」による制裁手段をとるなど、日本製品に対する圧力を強めた。
「東芝事件」も起こり、東芝は対共産圏輸出規制委員会による禁令違反に問われ、150億ドルに上る罰金通知と5年間の対米製品輸出禁止などの懲罰が東芝に課せられた。
日本は、軍事外交面で米国に依存し、輸出先としても米国が重要であったことから、日本政府は「対米輸出の自主規制」と日本の国内市場の開放を選択した。
その結果、日本の産業の発展は停滞した。日本は東芝事件以降、米国の怒りに触れることを学んで以降、半導体の対米輸出を自主的に制限し、「米国の半導体の日本市場における占有率を20パーセント以上にする」との取り決めを行い、研究開発と投資は抑制され、日本の半導体産業は衰退の道を辿った。
チップ産業について言えば、世界の半導体企業の上位10社のうち、日本企業が1986年には6社が入っていたが、2005年には3社に、2016年には東芝1社のみとなった。
このような日米貿易摩擦の教訓から、中国は本書で以下のような結論を導いている。
「米国の問題解決の枠組みは、個人と企業を攻撃して各個に撃破し、その全般的な解決を速めるというものである。その成功体験に基づき、米国の政府と企業は中国に対して今回も、中国の半導体と通信領域での進歩を抑制するとの戦術を採用した。
米中間で現在進展していることは、未来に向けての覇権の争奪である。米国は、今回の摩擦により輸入超過を縮めることを望んでいるのではなく、中国の半導体と通信分野での競争力を萌芽のうちに摘んでしまおうとしているのである」。
このように、中国はかつての日米貿易摩擦の教訓を分析し、米国の手法とその戦略的な狙いを分析している。中国は日本と異なり、安全保障を米国に依存していないため、より強硬な対応をとる余地がある半面、経済、技術面における成熟度に乏しく、自力による研究開発力、市場開拓力に制約があり、その対抗戦略が実効性を持ちうるかは不透明である。
中国は、米国の「保守」化傾向から見て、チップを代表とする情報安全保障の支配権争奪は激化しており、その背景にはネットワークの安全保障と未来の経済の主導権をめぐる争いがあるとみている。
また競争激化の要因として、世界がグローバルなデジタル化時代に入っており、米、独など各国が製造業の振興と人工知能などの発展戦略計画を次々に表明し、経済発展と産業力の向上と言う、共通の目標を追求していることがある。
それに対抗し中国も「中国製造2025」を制定したが、強制的なものではなく、投資と技術の新たな方向性を示すものであるとしている。
また国家安全保障上の要求も重視している。ウィキリークスの事件やイランの原子炉施設がサイバー攻撃を受けた事件が示しているように、革新技術が人に制せられ、情報が他者により監視統制されるようになれば、国家安全保障の「首根っこ」を完全に他人に牛耳られることになるとの、警戒感を露わにしている。
特にトランプ政権の、今回のZTE制裁などの伝統的な保護貿易思想への転換は、経済、産業及び国家安全保障面での保護主義に基づいてなされているとみている。
製造業の競争力の中核に対する絶え間のない圧力が、今後中国が常に直面する重要問題となる、ZTEの事件も米中貿易摩擦もすべて、その先ぶれに過ぎないとみている。
今回の制裁により、2018年上半期の中国の対米投資額は前年度同期比で90パーセント下落し18億ドルに止まった。
世界の多くの経済学者や政治家は、貿易戦争の発動は一時的なものとみているが、米中貿易戦争については、本書は、先行きを予測しがたいとみている。
エスカレートしても交渉を通じて徐々に緩和に向かうとの楽観論もある。しかし、米中の経済的な実力の盛衰は経済と貿易の競争を激化させ、貿易摩擦も厳しさを加え、いずれ金融、経済、資源面等での戦いとなり、米国は貿易、金融、為替、軍事など全方面で中国の台頭を抑制しようとするであろうとの悲観的な見方もあるとしている。
本書の内容から見て、中国の本音は悲観論にあり、米国からの最先端情報通信技術と製造業に対する圧力が今後も長期にわたり続くとの、強い警戒感を表明していると言えよう。
日本、韓国、台湾の先端電子通信産業台頭の要因分析
中国は、日韓台の先端電子通信産業台頭の要因分析を行い、そこから自国の先端チップ産業競争力維持の方策を探ろうとしている。
日本は、1976年から1979年の間、「超LSI技術研究組合」を設立していた。この組合は、通産省が主導して、日立製作所、三菱電機、富士通、東芝、日本電気の5つの大会社を骨幹として、通産省の電気技術実験室、日本工業技術研究院の総合研究所、計算機総合研究所に統合し、計720億円を投資し、マイクロチップ産業の核心となる技術突破の進展を図ろうとするものであった。
歴史的に日本はかつて、各種の「研究組合」を設立し、普段は競争関係にある各企業をそれぞれの組合組織にまとめ、そこに人材を集中するとともに、普段は相互に連携できない企業間の、交流と相互啓発を促進してきた。
「超LSI技術研究組合」は4年間で1210件の特許を申請するに至り、参加企業は無償で同組合の特許を使用することを許可され、全体的な技術水準が急速に向上した。80年代末には、日本の半導体生産設備の世界市場占有率は50パーセントを超えるに至った。
その結果米国は、半導体産業の発展を阻害され、コンピューターと通信機器の国防産業面での導入すら遅れることになるとみなした。このため米国産業界と政界は、日本の「研究組合」方式を、企業を補助し不公平な競争を招くものとして激しく非難した。
日米貿易戦争が始まり半導体戦争に至り、米国は100パーセント関税を課するなどの保護貿易の手段に出て、最終的に日本は半導体の対米輸出製品の価格統制などの手段をとることになった。その結果、日本のチップ産業は徐々に衰退していった。
韓国の場合は、1983年が転換点になっている。この年に三星集団の創始者李秉哲は、チップ生産に大規模投資をするとの大胆な決定を行った。李秉哲が、天文学的な巨額の資金投入を三星破産のリスクを犯しても強行したことにより、最終的に三星は、後にチップ製造業界での群雄の一人となる基礎を築くことになった。
三星は当初、日本からの技術導入に努めたが、日本側は未来の競争相手となることを警戒し技術提供を渋るようになった。そこで三星は、半導体の自力開発のためにリスクを犯して大規模投資をすることを決定した。
三星の決定の背景には、韓国政府による、大量調達、関税による保護など、三星生き残りに対する強力な支援があった。
三星の半導体生産は増えたが、加工の中間生産品は日本のシャープに依存するなど、外国製品への依存度は高かった。三星は、視察した東芝から生産部長を、また米国帰りで台湾の台湾積体電路(セミコンダクター)製造株式会社(TSMC)の創立を準備していた張忠謀などの人材引き抜きを行った。
三星が64K DRAM製造に乗り出したころ、世界の半導体市場はすでに低迷していた。そこで三星は、原価1個1.3ドルの64K DRAMを、1個1ドルの損をしながら販売した。インテルなど米国や日本の大手メーカーが撤退する中、三星は周期の逆を行く投資拡大を続け、さらに大容量のチップの開発を行った。
1986年に三星は、半導体で3億ドルの損失を累積させ、資本は完全に枯渇し、三星グループは破綻の危機に陥った。それでも李秉哲は、「技術開発を引き続き強化するには、生産規模を拡大するしかない」との信念のもとに、価格低迷時にも生産を拡大するとの方針を維持した。
この時に韓国政府は、1983年~1987年の「半導体工業振興計画」を実施し、3.46億ドルの政府借款を投入し、三星の窮境を救った。韓国政府は「政府+財閥」と言う経済発展方式をとったのである。韓国は日本が日韓基本条約締結時に払った資金をも支援に投入している。
1992年には三星は日本電気を抜いて世界一の大容量半導体のメーカーとなった。韓国の会社は、日本の会社に価格戦争をすれば勝てることを学んだ。1998年に日本から韓国にチップ生産世界一の座は移り、現在まで続いている。
中国は、韓国の台頭から、政府による支援と少数の財閥に対する膨大な資源の集中の必要性、資本密集型の大容量半導体などの分野では、迅速に資本を投下できる者が、最終的には巨額の在不損失を克服できることなどの教訓が得られたとみている。
台湾の場合は、日本や韓国と異なり、安い労働力の優位を利用して、代理生産を行うという独特の道を辿った。
台湾は1970年代に米国のワイヤレス通信の会社から技術を買い取り、工業研究院のもとに電子研究所を設立し、新技術の消化、吸収、創新を進め、TSMCと聯華電子の二社が生まれた。電子研究所に蓄積された自主技術は両企業に無償で与えられ、2社の設立には関係部門から出資と役員の送り込みがなされた。
1985年に新竹に世界最大級の代理生産専門会社が設立された。垂直分業生産による新しいビジネスモデルが創られ、速やかな成功を収めた。
台湾について中国は、電子研究所での独自技術の蓄積とその無償提供、安い労働力を活用した垂直分業生産方式の成功に注目している。
中国の通信情報産業の台頭はいかにして達成されたのか
以下は中国が自らの発展の歴史と現状をどのように評価しているかについての、上述書の記述である。
1970年代の初め米中関係が好転するにつれて、中国は欧米との経済技術交流を復活し始めた。しかし、1973年に米国のカラーテレビの生産ラインを視察したが、生産ラインの導入はできず、日本電気からの集積回路の生産ライン一式の導入にも失敗した。
他方、台湾では1975年に工業研究院が設立され、78年には韓国で電子技術研究所が設立されている。大陸中国でも1988年に米国のベル電話会社と上海の無線通信会社が合弁企業を創り、4インチウェハ―の生産を開始した。しかし欧米の封鎖により、中国はセカンドハンドの中古の設備が買えただけだった。
1975年、中国ではDRAMの核心技術の研究開発が完成していた。北京大学物理学系半導体教育研究室の指導グループが3種類の技術計画を完成させ、中国科学院109工場は、中国製の1024ビットDRAMを製造した。これは日米に遅れること4から5年であったが、韓国よりも4から5年早かった。
チップの発展史研究の専門家の客観的評価によれば、この時期の中国のチップの科学技術の水準は世界から15年程度、工業生産の面では20年以上の遅れがあったとみられている。
1977年に『人民日報』は『電子工業の水準は現代化の指標である』と題する社説を掲げ、電子工業は四つの現代化の重要な物質的技術的基礎であると主張している。その際に、「中国の労働者人民は聡明であり、膨大な労働者と科学技術者たちは志と能力に富んでおり、帝国主義、社会帝国主義の封鎖を突破し、原爆と水爆を造り、衛星を打ち上げ地上回収に成功するという、自力貢献を達成してきたのではないのか?…彼らが自らの力で高速コンピューターを開発し製造できないはずはない」と論じている。
しかし当時中国には600以上の半導体生産工場があったが、その集積回路生産送料は日本の1社の月産数にも及ばなかった。
1980年に、江南無線電子の機器工場に東芝からカラーと白黒のテレビの集積回路の生産ライン一式の導入が決まった。江南電子の無錫の第742工場に新型半導体設備が据えられ、研究開発と生産任務が与えられた。これ以降、無錫は中国の集積回路の産業の重要基地となった。
東芝との合弁の元、無錫工場には、集積回路技術の海外からの導入が進められ、数年のうちに3000万個が生産されるようになった。国内の家電メーカーが育ち、その心臓部の部品にはこの工場の部品が使われるようになった。
しかし80年代になると、中国の半導体生産工場が小規模で分散していることが問題になった。国は直接投資を減らし、企業自ら大規模化し市場での生き残りを図ることを求めた。その結果1985年には深圳に中興半導体会社が設立された。
国務院は「工業生産における経済責任制を実現するため」、果敢に挑戦して成功への道を「探索」してみること勧奨した。1982年に国務院は、全国のコンピューターと大規模集積回路業界に対する指導を強め、万里副総理を長とする「電子計算機及び大規模集積回路指導グループ」を創設し、1981年から85年の半導体工業の技術進歩指導のための計画を策定した。
1年後に同グループは、集積回路工場を南北の基地と1カ所の拠点に集中するとの発展戦略を提出し、北の基地は北京、天津、瀋陽、南は上海、江蘇、浙江とされ、一カ所の拠点として西安が指定され、宇宙基地と一体となった。
1986年には、中国の集積回路生産量が急減したため、国家は、資金を2つか3つの基幹工場に集中し、10前後の中規模工場を支援することになった。そのため、同年から1990年までの531発展戦略が提出され、無錫の742工場を拠点とし5ミクロン技術の普及推進を進めつつ、3ミクロンの技術開発と1ミクロンの技術の問題に取り組むことになった。
しかし当時は、国際的な先進技術と中国のチップ工業の技術にはまだ相当の格差があった。その原因として、世界的なブランドを欠いていること、技術導入がハードに偏りソフトウェアへの留意が不足していること、研究開発と生産現場の連携が不十分なことなどの問題点が指摘されていた。
その原因の一つは資金の問題であった。資金に当てが無く、上海は5億元が予定されていながら、目標額を達成できず、解散を宣告された。
また742工場の2-3ミクロン技術は東芝とシーメンスから、0.9ミクロン技術は米国のルーセント・テクノロジーから導入されたものであり、531計画は実現されたものの、すべて国外からの技術導入によるものであった。
1988年に中国の集積回路生産量は1億個に達したが、米国は1966年、日本は1968年に達成していた。
742工場の成功により、同工場に四川省の24カ所から500人が選ばれ、724工場と共同で、無錫マイクロエレクトロニクス生産連合体が創設され、自主研究開発能力の向上に取り組むことになった。
1990年に同年から95年までの半導体技術を1ミクロンにすることを目標とする908プロジェクトが決定され、総投資額20億元、そのうち15億元が無錫のシリコンウェハーに投じられ、月産1.2万個を銀行の借款を得て、目指すことになった。そのほかに9つの集積回路企業に5億元を投資し、設計センターを設立することになった。
この頃、日米の半導体領域での闘争は激化し、韓国も猛追していた。中国も世界の先進的レベルとの距離を縮めねばならなかった。
プロジェクトの達成は、経費審査に2年、ルーセントからの0.9ミクロンの技術の導入に3年、その後の論証と工場建設に2年、計7年を要した。1997年に建設が終わったころには、国際水準よりも遅れ、2.4億元の損失が出た。
1998年にウェハーの生産分野は香港の上華半導体会社に2800万ドルで貸し出された。米国からの技術導入と台湾の参加により合弁会社の業績は回復し、3年で投資額は全額回収された。
以上の経過から上述書では、「計画経済の運用体制ではすでにチップ産業の発展に内在する法則にはますます適応できない。商業化が進んで以降、国際化の背景の下、908プロジェクトが困難に突き当たったことは明らかである。研究開発を国際的な先進技術の進歩に合わせなければ、産業化の度合いは低くなり、生産品の生産能力もますます拡大ができなくなる」という教訓が得られるとみている。
1995年に党と国家は、国際水準から大幅に遅れていた当時の中国のチップ産業を急速にレベルアップするため、中国史上最大規模の100億元を909項目に対し投資し、8インチのシリコンウェハーと0.5ミクロンの製造技術を持った集積回路の生産ラインを建設することを決定した。
1990年代中頃には中国は世界的なチップ生産大国になっていたが、外国企業と対等の立場で交換する能力が欠けていたため、チップの核心となる特許技術の使用料を払わねばならず、大量の電子製品を製造しても利潤は薄かった。
この状態は改まらず、そのままでは永遠に「電子部品の組立加工」に止まる危険性があった。
当時の半導体産業の更新速度は最も速く、製品の集積度は18カ月ごとに倍増し、それに応じて多くの設備も交換し向上しなければならなかった。そのための投資とその意思決定には何度も審議しなければならず、時間がかかり、半導体のような迅速に発展する高度の科学技術産業のテンポには適応できなかった。議論をしている間に、思いもしなかった変化が生じて、予想外の先進的な技術に後れをとることになった。
各部の審議時間を短縮して、審議の手続きを簡素化し、従来の製品のライフサイクルについての審議過程の手法を徹底的に改革した。同時に、909項目に対して登録されていた資本金40億元、1億ドル相当を、国務院と上海市が6対4の比率で分担して出資した。中央からの資金は特別支出金専用で、直ちに支出された。
909プロジェクトは成功あるのみであり、失敗は許されなかった。もしも909プロジェクトが再度失敗すれば、国家の半導体産業への再投資は数年間困難となることは明らかだった。
909プロジェクトでは新しい政策が模索され始めた。すなわち、市場をもって誘導するという政策である。投資総額は建国以来の集積回路に対する投資の総和を超えていたが、国家が国家開発銀行を通じて企業に注入した資本金には、独立的に運用される株式会社を支え、資金の使用は融通が利き、自主性を高めるという特徴があった。
909プロジェクトのもとで、上海の華虹国際、北京の華虹集積回路設計会社などが相次いで設立された。中でも華虹NECは1997年7月に着工し99年2月に完工、2000年には30.15億元を売り上げ、その技術は0.35~0.24ミクロンに達し、64MBと128MBのSDRAMを生産するようになり、メモリーでは国際水準に追いついた。
しかしプロジェクトが操業を始めた頃に、世界的な半導体メモリー市場の価格下落が生じた。国家が後ろ盾となり、いかにしてチップ産業の突破口を開くかという難問に取り組むことになった。
909プロジェクトの関係者は、すでに分割された固まった大市場に入り込むのか、ニッチの小市場に切り込むのか、瞬時に変化する市場の需要と価格変動にどう対応するのかという、巨大な挑戦に晒されていた。
909プロジェクトの担当者は、華虹会社の成功を同プロジェクトの成否を決定する上での尺度とした。同プロジェクトの熱心な支持者だった上海市長の徐匡迪は常に、華虹の当時の理事長張文義に「華虹なら儲かるかと否か」を訊ねた。
2005年に華虹は当初立てた目標を達成したが、その結果以下の3つの経験を学んだとされている。
一つは、真の革新技術は市場を通じて交換することは困難であり、導入は木基ではなく、自ら発展することが目的である、そのためには自主創新と自らの道を進むことを最終的に実現することが目的であること。
二つ目に、終始、市場をもって誘導すること、高度の科学技術を導入することを、国内でのその領域の空白を補填するためにまず考え、市場の誘導に従うことを無視しがちである。もしも市場の要求に合わなければ、技術水準は高くても、市場から報酬は得られず淘汰されることになること。
三つ目に、人材をしっかりと確保することが高度科学技術発展の核心であり、優秀な人材こそが創新の主力であり中核であること。
2014年の国家の集積回路産業への投資基金は、当初計画1200億元から最終的には1250億元に増加し、発起人には、国家開発銀行、中国タバコ、チャイナモバイル、中国電子科技集団など実力のある企業が名を連ねた。
「大基金」の前に、「核高基」が国家の特定支援項目としてある。2001年から2005年の「十五」計画の初期に、超大規模集積回路設計特定項目が設けられた。特定項目には、まず「国産の高性能SOCチップ」の確立、さらに「対面式ネットワークコンピューターの北京大学衆志863CPU系統のチップと調整システム」、「龍芯2号増強型プロセッサー用チップの設計」等の課題があった。
上海の高性能集積回路設計センターは「申威」CPUチップを製造し、10兆回の演算速度の国産スーパーコンピューターに搭載した。北京大学の衆志については、1999年に完全自力研究開発による中国初のCPU機構を開発した。龍芯については、北斗衛星などの国防軍地工業用として広範に利用され、民族ブランドのチップとして知られるようになった。
このような基礎に基づき、2006年に「核高基」という重大な特定項目が正式に開始された。これは「核心となる電子機器であり、ハイエンドの広く用いられるチップとソフトウェア製品」の簡潔な呼称である。国務院は2006年から2020年の『国家中長期科学技術発展規則要綱』において、「核高基」を宇宙開発や月探査と並び、16の科学技術重大特定項目のトップに挙げた。
2020年までに中央から328億元が財政支出され、地方その他の配当資金から1000億元を超える資金が投入されることになっている。
「核高基」の特徴は「企業主導でけん引する」ことにある。高度市場化の条件の下で「挙国体制」の優位を発揮するという難題が、「核高基」に持ち上がった。
2017年に過去10年の特定項目の実施結果を見て、集積回路製造の鍵となる装備の実現がまだ達成されていないことが批判され、30以上の先端装備と100種類以上の材料の研究開発を成功させ、内外の市場に進出して、産業の隙間を補填することが求められた。
精華大学の魏少軍教授は、「我々の核心となる電子製品の鍵となる技術において各方面で重大な突破がなされ、技術水準も全面的に上がり、外国との差が15年から5年に縮まったことは、中国の核心的な電子機器に使う重大な製品を海外からの輸入に長く依存し、「首根っこをつかまえられる」と言う問題を緩和することになる」と述べている。
中国のチップ産業育成政策と米中貿易戦争への対応
中国にとり最先端の通信情報産業の育成は何よりも国防上の要求に基づいている。例えば、スーパーコンピューターについて、「国防の安全保障、両対力学上の計算、核兵器の研究などの領域に決定的な影響を与えるものであり、しばしば国家の科学技術力のシンボルの一つとみなされる。演算速度が向上すれば、スーパーコンピューターの応用の効果はさらに拡大し、すでに現在の世界の大国間の争奪の戦略的制高点の一つになっている」と述べている。
枢要な情報基盤設備の自主的で安全な創新に備わるべき要因として、以下の「核心的な3要素」を挙げている。①CPUの研究・製造部門が安全保障上の秘密保持の要求に合っているか?②CPUのコマンド・システムが持続的な自主的発展を可能にするか?③CPUのソースコードを自ら編纂できるか?
龍芯会社の胡偉武総裁は「我々がいかにして自主的なプロセッサーの研究開発を進めるか?」について、海外からの技術導入と外資導入は経済発展にとり重要だが、自主開発による科学技術の学習の枢要な意義に、すべてとって代われるものではないとの言葉を引用するなど、自主的な研究開発・製造・投資の必要性を強調している。
また絶えざる投資と技術革新の必要も強調している。華為の創設者の任正非は、「創新なしには、高度科学技術の業界の中で生き残ることはほとんど不可能だ。この領域では、息をついている暇はない。少しでも後れをとれば、そのことはやがて死に至ることを意味している」と述べている。
2016年には華為は15カ国に研究開発センターを設立し、華為がグローバルな技術的資源を利用できることを助け、同時にこの研究所を通じて、世界中からトップクラスの人材を急襲している。2017年の報告によれば、その年の売上高は6036億元、研究開発投資額は897億元であり、研究開発費には14.9パーセントが投じられている。
しかし華為は創新のための創新には反対である。任正非は「技術を使用に投入するかどうか、いつ使用するかを決めるには、顧客の声を聴かねばならない。半歩先を切れば先頭に立てるが、三歩先んずれば革命烈士になれる」と述べている。
またリスクをとることの重要性も指摘している。「小さな馬が大きな車を引く」ことは、車馬ともに覆りパソコン市場から退場させられるリスクを犯すことになるが、華為はそのような冒険を犯して巨大な報酬を得た。
華為には自ら製造できるチップがあったため、研究開発と製造のコストはさらに下がり、価格交渉でも強い立場に立て、資金供給力も上がった。
華為発展の秘訣は、華為の海思チップは自主創新の部分が相当高度だったことと、「導入、吸収、消化、創新」というモデルも国際的な技術進歩の主流に適合していたことにあったことを明らかにしている。
華為の姿は、「まず一銃を撃ち、次いで一砲を撃ち、然る後に膨大な弾量の砲弾を集中的に撃ち込む」と言うべきであろう。まず科学的な研究開発は「一銃を撃つ」ことに当たり、将来の不確定な技術の進展に対し探りを入れ、探ってみて失敗が無ければ、次に「一砲を撃ち込む」道を求めて、小さな範囲での研究討論を行う。それで、もしも「城攻めの突破口」が見つかれば、そこに「膨大な弾量の砲弾」を集中的に撃ち込む必要がある。
このように、華為の成功例に基づき、研究開発から実用化への突破口についての審議、突破口への資源の集中投入という手法を奨励している。
また中国には、対共産圏輸出統制委員会の規制という問題もあった。そのため、例えば1980年代末から90年代には、米英日などからの技術移転や製品輸出は止められていた。当時、「中国企業は極めて高価な数少ない末端の製品を導入し、透明な仕事場を据え付け、仕事場の鍵は米国からのプロジェクト管理者の統制の下に置かれることを余儀なくされた。このように、他人の監視統制の下で高性能のコンピューターを使わざるを得なかった」としている。
この対中輸出規制も中国に国産化を急がせた要因になっている。
中国は1990年には毎秒の計算速度1000万回のコンピューターしかなく、米国から大きく遅れていた。1992年に研究開発組織が創られ、200万元投入し、「曙光1号」の自力開発・製造方針を決定した。
そのためにまず日本に行き、当時の「第五世代コンピューター」を学習しようとしたが、調査研究の結果、その方針はとらないことになった。「第五世代機がその後とん挫したことから見て、その判断は正しかったと評価している。
中国の当時の困難は、一つの部品やちょっとしたソフトウェアの不備から、研究開発全般が半月から数カ月も遅れることにあった。
研究開発組織は、6名の科学技術者から成る小分隊を創り、米国のシリコンバレーに送った。留学生の宿泊する部屋は機械設備でいっぱいになり、応接室がそのまま作業室となり、寝室にはベッドもなく床で寝起きさせ、研究開発に没頭させて、高速演算可能な高性能コンピューターの開発を急がせた。1年後には「曙光1号」は同類の数年前に導入した外国製の5倍の性能を達成した。
このように、懸命の自主開発努力が続けられた。
巨額投資の趨勢は近年ますます顕著になっている。2018年紫光国芯集団は紫光国微集団に社名を変更したが、18.7億元と9.07億元を投じて展訊通信と鋭迪科微電子を買収し3大パソコンチップ企業の一つになった。また25億元を投じて新華の3グループを買収し、世界第二位のネットワーク製品とサービスの会社となった。
「自主創新+グローバルな協力」が紫光集団が世界的なチップ企業に急成長した駆動力であるとしている。
またAIチップを開発している陳雲霽、陳天石兄弟が外国から「神童」と呼ばれる天才であり、彼らのような人材を見つけ出し活用することの意義も強調している。兄の陳雲霽は14歳で大学に入学し、29歳で博士課程の指導教官になり、中国科学技術大学の少年班卒業後は外国人から「神童」とみられていた。弟の陳天石も同様の天才であり、二人は2016年に武紀科技を設立し、AI用チップの核心技術の研究開発に取り組んでいる。会社の市場価値は2018年には10億ドルに達している。
外国人には天才に見えるが、陳雲霽自身は科学技術大学の少年班でも成績は良くなかったし、天才ではないと言っている。兄弟二人で同じようなことを共に学びあい、夢の実現を追求できたことが幸運だったと述べている。
米中貿易戦争に対していかに対応すべきかについて、これまで通信情報産業に貢献してきた有識者の見解を以下のようにまとめている。
今直面している問題点として、①中国と峡谷との間には数世代の格差がまだあり、他国から提供すると言われても、企業は自から研究開発、製造、設備更新をしないわけにいかないこと、②奨励と激励の制度に対し、科学技術者に関心が薄いこと、③AIの細密化、大容量化に対応する基礎理論の問題に対する力が不足していること。
人材の獲得という点について、当初は改革開放により米国の中国系学者などの下に派遣されていた若い中国人留学生を呼び戻し、研究組織の指導者にしたことが挙げられている。その代表者として、コンピューター用チップの研究開発のため「曙光」会社を設立し経営者となった李国杰が挙げられている。李国杰等は帰国後も米国の研究者と交流を維持して最新技術を導入し、彼らが初期の研究開発の中心となった。
李国木杰は以下の点を強調している。
「国家が責任を負い、果敢にリスクをとるという創新精神を継承することが重要である。
863プロジェクトは高度科学技術自主開発の旗印となり、国産高性能コンピューター「曙光1号」の開発に200万元を投入することを決定し、その開発につながった」。
また「最先端技術の研究開発に従事する者は、小さな成功に甘んじてはならない。
特に情報産業分野ではコンピューター産業の規模はますます拡大し、従事する人員も増加している。技術的な細かな改良を習慣とし、広大な市場を判断し未来を洞察する力が欠けていてはならない。
科学技術の評価制度ではややもすると数字化による評価が強調され、「木を見て森を見ない」科学技術者を生むことになりがちだ」と警告を発している。
中国のチップとそのコントロール・システムの草分けとなり、中国工程院院士の倪光南は、中国のチップ産業が越えねばならない二つの大山を挙げている。「一つは、チップの製造面で資金が極めて不足していることである。現在は、10年間継続して資金投入をして10年後からようやく利益が得られるという状況になっていることから、中国のチップ製造業が良くなることはなく、レベルは低いこと」が挙げられている。
もう一つはソフト面での大山で、「チップとその制御システムの基礎を構成しているのは、大量のソフトウェア・システムだが、大量のアプリケーション・ソフトが必要になる。典型的な例は、アップルのIOSシステムとグーグルのアンドロイドである。
このようなネットワーク環境面の問題点は、一度形成されると変えるのが極めて困難になるという点にある。強いものはますます強くなり、独占的な地位が固められる。仮にチップが使用されるようになっても、ネットワーク環境のシステムが伴わなければ、長期的な発展は望めない」と述べ、独自のネットワーク環境、特に独自のOSの開発の必要性を訴えている。
龍芯中国科技株式会社創設者の胡偉武も、情報産業は自らのネットワーク環境を創り出さねばならず、そのためには自らがコントロールできるシステムの創造を開始する必要があると強調している。
胡偉武は、龍芯が過去10年間に歩んできた次の3本の道を挙げている。
①市場化の道はアカデミズム派を創る道としてはならない。龍芯は企業主体の方針を堅持し、アカデミズム派を別に創らず、百名の基幹技術者は内部の辞職者から募った。
②自主研究開発は技術導入により取って替われない。龍芯は革新技術は自らの掌中に収め、導入に頼らないとの方針を堅持してきた。困難なことは長期にわたり堅持することである。特に複雑なシステムでは産業化への実践において絶えず発展し変化しなければならなかった。
③ネットワーク環境の整備は製品を創ることにより取って替われない。龍芯は常に、自主的なソフトウェアによるネットワーク環境を創るとの方針を堅持してきた。
また胡は中国の龍芯は3つの問題に直面していると指摘している。
①中国には汎用CPUを研究開発し製造する必要があるのか?これまでは高性能プロセッサーの開発に力を入れてこなかった。これからはやらねばならない。
②中国には汎用CPUを研究開発する能力があるのか?高性能プロセッサーは最も枢要なものであり、かつ設計の困難なチップである。2005年に米国は報告の中で、「中国はすでに世界一流のプロセッサーを設計することができる。龍芯2号の設計は、中国が正に世界の他のプロセッサーの能力よりも優れた者を生産する準備ができていることを語っている」と評価している。
③龍芯は売れるのか?龍芯の会社の業績はますます上がっており、2年連続で50パーセント以上増加した。2015年の売上高は1億元を超えた。龍芯のCPUは計画経済内の体制内企業から私企業など体制外の企業にますます多く買われるようになっている。
このように龍芯が直面している問題はいずれも克服可能と、強気の見通しを胡偉武は示している。
中国コンピューター学会は、ZTF事件の本質について、中国のチップと基礎的なソフトウェアと産業のネットワーク環境の仕組みが、採るべき措置について討論し、以下の提案を行っている。
①グローバルな環境下での、中国の集積回路とソフトウェア産業に対する構想を明確にする必要がある。グローバル化時代では、我々は国際市場のルールを旬主旨、積極的にルールの制定に参加する必要がある。国際競争の家庭において、発言権と制度を覆す能力を得るために参加することは、グローバル化時代において、サプライチェーンの安全を保護するための根本的な解決策である。
②政府と企業はともに、サプライチェーンの安全意識を確立しなければならない。ZTEの事件は、孤立した事件ではなく、その他の業界と分野にも類似した危機があることを示している。このような状況に至る前に、我々は速やかにサプライチェーンの安全保障管理の仕組みを打ち建てねばならない。企業には自らのサプライチェーンにある弱点を検査する専門部門を創らねばならない。単一の供給源に依存している物については、速やかに自主的な研究開発をさせねばならない。同時に政府は、システム全般構想の設計を行い、産業のサプライチェーンの安全についての整合されたリストを創り、弱点に対しては資金を投入し、合理的指導を行わねばならない。その際に企業の自力更生と主体性を発揮させねばならない。
③中国は後発の新興国家である。その優勢を高めるためには工夫する必要がある。後発国家として先発国家の技術の独占を打破しなければならないが、それは極めて困難である。チップと基本的なソフトウェアの分野では、インテルなどの米国本土の企業が揺るがしがたい独占的地位を築いている。中国は自らの優位性を十分に発揮し、新興産業と垂直領域において、チップとプラットホームの技術でのブレークスルーを成し遂げねばならない。例えば、AIのチップなどの新領域では、まだ独占的地位の大企業が形成されていない時に、国外企業が同じ路線上で展開している競争で打ち勝つ必要がある。寒武紀などのAIチップ企業はその例である。我が国自身がすでに備えている垂直的な領域における優勢、すなわちわが国自身の産業の規模と市場規模の優勢を十分に利用して、弱点を補完しなければならない。アリババ、シャオミはその例である。新興領域と優勢な領域とで国際的な大企業の技術独占を打破できれば、制度を覆す能力ができ、グローバル環境下で中国の高度技術産業のサプライチェーンの安全を保つための重要な解決策が得られるであろう。政府はこのような発展の趨勢を激励し、指導し支持するべきである。
以上の認識に基づき、問題を根本的に解決するための、健全な事業環境の構築を、以下のように訴えている。
①国家は、正確な政策による誘導と合理的な全般システムの設計をしなければならない。かつてはチップとソフトウェアの領域では、長期の全般的な戦略的計画が欠け、産業政策も短期的な行動に注意が向けられていた。功を求めるのに急で目先の利益を追うという、業界の浮薄な風潮の表れでもあった。創新科学技術項目についても、協調と統制管理の仕組みが欠け、指導権が分散し監督が重複していた。知識産業の保護が重視されず、基礎研究と革新技術の研究開発の基礎に注意が向けられないようでは、未来主義とは名ばかりで、実際上は科学者と企業家の創新への熱情を抑制することになる。この問題の解決には、持続的で穏当な長期的視野に立った産業発展政策が求められている。
②基礎研究と人材の育成のための良好な土壌を創らねばならない。中国のチップと基本的なソフトウェアの分野に投入された資金は遅くかつ少なかった。理想的な効果を上げるのには程遠く、基礎研究と人材育成にとってははなはだ不足していた。それらは外国の拠点に主に依存し、技術と人材の流出は避けられなかった。学術上の評価基準についても一律ではない評価標準と体系を創らねばならない。もしも人材に対して公正な評価を与えられなければ、優秀な人材を引き留めておくことができないで、競争力のある集団を創ることも、創新も、核心技術もできない。発言権も産業の安全保障も意味がない。
③工業界と学術界は緊密に連携しなければならない。チップと基本的なソフトウェアの科学技術における自らのルールを創新し、その中の重要なルールとして、創新の成果に釣り合う工業の基礎の拠点を創ることが必要である。鉱業の基礎の拠点が無ければ、創新の成果も市場での競争力にはならない。いつまでも単発の技術突破を望み、産業の関連全般にわたる各分野の要点における技術進歩の調和を軽視すれば、創新の土壌は失われてしまい、健全な業界の事業環境について論じても意味がなくなる。工業界と学会が緊密な連携と、政策の誘導、人材の評価、資金の投入などの面でも、チップと基本的なソフトウェアの業界の科学技術創新における独自のルール作りを、強力に提唱していかねばならない。
④共同体全体としての財源開発活動をさらに重視しなければならない。OSなどの基礎的なソフトウェアのプラットホームの分野では、ソフトウェアの収入増と共同体全体の財源開発が重要なテーマである。中国の業界の習慣では、業界全体としての財源開発に対する認識度は低い。企業は業界の財源開発を求めず、自社の核心技術が競争相手に利用されることだけを心配する。他方では、開発されたソフトウェアを使用する際には承認を得ようとせず、他社により自社の核心技術を話そうとしない。これらの態度はともに誤りであり、業界の財源の開発は産業の事業環境にとり重要な構成分野であり、財源開発とソフトウェア製品の開発への貢献は、創新活動の一部である。専門家は、企業に財源開発を呼び掛け、科学技術項目の財源開発を推進し、財源開発の地位を向上させ、企業と学会は、業界の財源開発を主導することを通じて、グローバルな創新の資源開発を自らの仕事としなければならない。
以上の認識に基づいて、中国コンピューター学会は、同学会公共政策委員会の名前で、以下の4つの提案を行っている。
①チップとプラットホームの中長期の発展計画を制定し、総合的、戦略的かつ先見性のある業界の発展戦略を制定すること。計画の制定は、科学に従いこの二つの核心技術を進めるものであり、産業の事業環境の安全が保障され「首根っこをつかまれる」状態を打破すること、これが計画実施の最も基本的な目標となること。
②科学、技術、産業と人材育成にとり健全な全般環境を創るが、その中でも人材の育成とそのような組織化された集団を創ることを最重視すること。学会と工業界の連携を推進すること。投資項目は、多数の管理権が重複することを避け、各項目の責任者を明確にし、責任を負う制度を実施すること。
③サプライチェーンの安全保障について議事日程に載せ、政府は産業全般の角度からサブライチェーンの安全保障について対策を考え、企業が自らのサプライチェーンの安全性についての評価制度を打ち建てるのを指導すること。
④科学的な管理革命の「目に見える手」を使い、政府の調達や減税を利用して、ハイテク産業に対し実のある支援しなければならない。それと同時に、「見える手」を用いて、垂直的分野の優勢な業種と劣勢な業種の調和をとり、優勢な業種を通じて劣勢な技術の発展を推進し、弱点を補完すること。
以上が中国全国コンピューター組合の提言である。
最後に、全般を通して、自主技術開発の不可欠なことを再度強調している。「貿易摩擦、ZTE事件、華為に対する封止など、2018年は歴史的な進展の中でも特別な意義を持つ転換点だったとして、その本質について3カ月間、(上に述べた)様々の識者の見解を聞き検討した。
その結果言えることは、この米中貿易戦争の本質は、技術と市場をめぐる競争にあり、米国は矛であり、攻める側であり、中国は盾であり、守る側であることにある。ただし、最終的な技術は市場に提供されて初めて高額の利潤を獲得でき、継続的な技術の発展が可能になる。市場から去れば、技術は必ずや衰退する。市場は、技術を養い、技術を発展させ、技術を転換させ、技術を創造する。
もしも技術を他者に一端依存すれば、必ずや「供給を絶たれる」と言う痛みを被り、「首根っこをつかまれる」苦境に陥ることになる。「チップ(芯)がなく精神力が足らなければ」、一撃に耐えられない。経済のグローバル化の下では、核心技術は「孫悟空の如意棒」のようなものであり、「手を伸ばせばすぐに取れる」ものではない」。
まとめ:中国の対応姿勢と日本にとっての教訓
以上の中国側文献に基づく、中国のチップ産業に関する分析によれば、中国はZTE事件に象徴される米中貿易戦争の背景には、将来の軍事力、経済力、科学技術力など、総合国力の核心となる通信情報分野における、米中間の覇権争いがその本質にあるとみて、深刻な脅威感、対米警戒感を抱いていることは間違いない。
またすでに制裁措置により深刻な打撃を受けており、今後さらに長期化し拡大するものとみており、その対策を国を挙げて検討し、これから取り組もうとしている。
その際の最大の教訓とすべき歴史は、30年前の日米貿易摩擦であり、日本の轍を踏んではならないとみている。特に半導体の自主開発に徹することなく、米側の要求を呑んで、対米輸出の自主規制に踏み切り、今日の衰退を招いた。その背景には、日本の安全保障面での対米依存があったとみている。
中国は、米国に安全保障を依存してはいない。むしろ対米貿易戦争は最終的には軍事的覇権をめぐる戦いに至るおそれもあり、中国の対米警戒心は今後も強まるとみられる。
米国も、ペンス演説でも表明されているように、中国は、米国の価値観や体制に挑戦し、米国から最先端技術を盗み、安い労働力を使って加工して米国に輸出し、対米貿易黒字から得た利益を軍事力拡大に転用し、安全保障面でも最大の脅威になっているととらえている。
中国は、この苦境を打破するための方策として、①政府による長期構想とイノベーションの重点の指示、基礎研究基盤の育成、②人材の育成・抜擢と人材集団の組織化、③当初の技術導入とその吸収・消化、なるべく早期の創新、自主研究開発・製造への転換、④リスクをとる果敢な経営・研究開発姿勢の維持と長期継続的な集中大規模投資、⑤軍民学を挙げた重点項目に対する自主研究開発努力の継続と相互協力、⑥政府による、全般長期戦略計画に基づく継続的指導、特に業界全般の財源開発とリスクマネーの提供、企業の弱点補償、⑦政府によるサプライチェーンの安全保障と調達・税制面での企業支援、科学技術者への奨励策の実施、⑧企業の自力更生と主体性の発揮、⑨産業界と学会の連携などの要因があげられている。
毛沢東は、「我々はパンツをはかなくても原爆を開発する」と唱え、中国は自力で原爆や水爆、弾道ミサイル(「両弾一星」)を開発した。本書『中国チップ産業の分析』でも、原爆や水爆の自力開発の歴史を引用し、今の苦境も自力開発努力により乗り切れると鼓舞している。
有識者や中国コンピューター学会の挙げている対策は、いずれも現況を踏まえた合理的なものではあるが、それを実行できるかどうかは、不透明である。
その成否は、人材の育成とその結集、科学技術と産業の基盤、資金力、政府の指導力と支援体制、軍官民の協力態勢、企業の自主経営努力など、種々の要因により左右されるとみられる。
しかし、その根本は、次代の国力の盛衰を決める核心技術分野で他国、特に米国には決して制せられてはならない、何としても自力開発・製造を成し遂げるとの気概にある。
かつて日本にも同様の気概があふれていた時代があった。中国が採ろうとしている政策の多くは、かつて日本も実践していた政策である。
中国は、自力更生の気概をもって、核心技術のイノベーションを成し遂げ、対米覇権競争に臨もうとしている。
しかしいまの日本は、すでにそのような気概を失ってしまい、自力更生の意思すら失っているのかもしれない。そうとすれば、新たな令和の時代になっても、日本の衰退は避けられず、米中との格差はさらに開くことになるであろう。
日本にはかつての実績もあり、いまも基礎的な科学技術力や産業基盤は残っている。再生の潜在力は十分にある。通信情報産業においても、その他の分野においても、他者依存の精神から脱却し、自力自主、独立自存の気概を回復すれば、復興の道は拓けるに違いない。
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2017.06.07
日本は戦時中、核実験に成功していた ―R・K・ウィルコックス『日本の秘密戦争(Japan’s Secret War)』の検証―
日本は戦時中、核実験に成功していた
―R・K・ウィルコックス『日本の秘密戦争(Japan’s Secret War)』の検証―
元陸将補 矢野義昭
1 日本の大戦中の核開発をめぐる従来の定説とウィルコックスの新説
日本は第二次大戦中に核開発に取り組んではいたが、理化学研究所の仁科芳雄博士を中心とする陸軍の「二」号計画がとん挫し、1945年5月で終結したとするのが、従来の定説である。
その背景には、当時の我が国の、技術的困難、原材料の不足、空襲による施設装備の被害、資金の不足などの諸事情があったとみられている。
しかし、本当にそうだったか疑問を呈する新説を裏付ける、米国の機密資料が近年、続々と公開されるようになっている。
新説をまとめた代表的な書物が、ロバートK・ウィルコックスによる『日本の秘密戦争(Japan’s Secret War)』である。
本書執筆のきっかけとなったのは、ウィルコックスが、スネルという著名なジャーナリストが書き残した、「ワカバヤシ」と称する元海軍士官のインタビュー記事の内容であった。
スネルは、日本人士官から1946年夏以前に聞き取ったとする、以下の証言から「1945年8月12日に北朝鮮の興南で日本が核爆発実験に成功していた」と主張した。
その主張を、米公文書館などの秘密解除された文書や関係者へのインタビューなどの、自らの調査結果に基づき、裏付けたのがロバート・K・ウィルコックスであった。
調査結果をまとめて1978年に、R・K・ウィルコックスの『日本の秘密戦争』の初版が出版された。しかし、以下のスネルの記事と同様に長年、「作り話」とされ、米国でも日本でも本格的な追跡調査はされてこなかった。
しかし、今秋『日本の秘密戦争』の第3版が日米同時出版されることになった。第3版では、政府部内でチームを組んでウィルコックスの主張について調査していた、元CIA分析員のトニー・トルバや元米空軍の画像分析・核兵器の検知の専門官だったドワイト・R・ライダーと名乗る人物の証言が、新たに追加されている。
その内容は実に驚くべきものである。翻訳者である私自身、翻訳を始める前は半信半疑だった。しかしほぼ翻訳を終えた現在では、日本が大戦末期の1945年8月12日に核実験に成功していたことは、ほぼ間違いのない歴史的事実と言えるのではないかとの見方に立つに至った。
2 スネルが主張した、日本による1945年8月12日の核実験の成功を示す証言
以下は、ウィルコックスの著書初版本の「序章」に記述された、スネルの日本人士官「ワカバヤシ」からの聴き取り内容の抜粋である。
第二次世界大戦終了直後に、米国の太平洋担当情報機関に衝撃的な報告がもたらされた。日本人が、降伏する直前に、原子爆弾を開発し成功裏に爆破試験を行っていたというものであった。その計画は朝鮮半島の北部の興南(「コウナン」と朝鮮名「フンナム」の日本名で呼ばれた)か、その近くで進められていた。その兵器が使用されるかもしれなかった、それ前に戦争は終わったが、造られた工場設備はソ連の手に落ちた。
1946の夏までには報告が出された。第24犯罪者取調べ派遣隊係官(のちに『ライフ』誌の特派員)のディビッド・スネルは、離任後に『アトランティック・コンスティテューション』にそれについて書いている。彼は多くの情報提供者の一人にその話についてインタビューを行った。彼は、朝鮮から日本の故郷に帰る途中の士官で、その計画の秘密保持の責任者であったという人物であった。
スネルが記述している、士官の語った内容とは、以下のようなものであった。
「興南の山中の洞くつで人々は、時間と競争で、日本側が原爆につけた名前である「原子爆弾」の最終的な組み立て作業を行った。それは日本時間で1945年8月10日のことであり、広島で原爆の閃光が光ったわずか4日後、日本の降伏の5日前であった。
北方では、ロシア人の群れが満州になだれ込んでいた。その日の真夜中過ぎ、日本のトラックの車列が洞窟の入口の歩哨線を通過した。トラックは谷を越えて眠りについている村を過ぎていった。冷え込んだ夜明け前に、日本人の科学者と技術者たちは、興南の船に「原子爆弾」を搭載した。
沖合の、日本海の小島の近くで、さらに大急ぎで準備が進められた。その日は一日中古い船、ジャンク、漁船が投錨地に入っていった。
8月12日の明け方、ロボット式のボートがポンポンと音を立てて錨の周りの船の間を抜けて、小島に達着した。ボートに乗っていたのは「原子爆弾」だった。
観測者は20マイル離れたところにいた。これまで過酷な作業に取り組んできた男たちは、その完成が遅すぎたことを知っていたが、この待機は困難で奇妙なものであった。
日本がある、東の方が明るくなり、ますます輝きを増した。その瞬間、海の向こうに太陽は顔をのぞかせていたものの、爆発的閃光が投錨地に照り輝き、溶接工用の眼鏡をかけていた観測者が盲目になった。火球の直径は1,000ヤードと見積もられた。様々の色をした蒸気雲が天空に立ち上り、成層圏にまで達するきのこ雲になった。
激しい水と水蒸気によりかき回され、爆発点の真下にあった船は見えなくなった。錨の周りの外周にいた船やジャンクは激しく燃え上がった。大気がわずかに晴れ渡ったとき、観測者たちは5~6隻の艦艇が消えて無くなっているのに気付いた。
「原子爆弾」のその瞬間の輝きは、東に昇ってきた太陽と同じ程度だった。
日本は、広島や長崎も褪せるほどの大異変である、原爆の完璧かつ成功裏の実験を成し遂げていたのだ」。
爆弾は日本海軍によりカミカゼ機に使うために開発されたと、士官は通訳を通じて、スネルに語った。米軍が日本の海岸に上陸したら米軍に対して特攻機から投下する予定だった。
「しかし、時間切れになった」とスネルは報告し、以下のように付加している。「観測者たちは急いで水上から興南に戻った。ロシア陸軍の部隊は数時間の距離に迫り、『神々の黄昏』が最終的な意味合いで始まった。技術者と科学者たちは機械を壊し書類を燃やし、完成した「原子爆弾」を破壊した。ロシア軍の一隊が興南に来るのがあまりに速かったため、科学者たちは逃げのびることができなかった」。
科学者たちはロシアに連行され拷問にかけられたと、士官は語った。しかし彼らは語ろうとはしなかった。「我々の科学者たちは、ロシア人に秘密を白状する前に、殺されることはなかった」。彼はそれを知っていると言った。彼は、逃れた一人とソウルで話したが、彼自身と同様に、送還された。
米軍の将校たちは混乱した。彼らは、日本人が原子爆弾に取組んでいたのを知っていたが、彼らが理論以上に進んでいたとは信じていなかった。今や彼らには、それとは逆の数多くの資料が立ちはだかっていた。すべての報告書は本質的には同じことを語っていた。その一部にも真実はないと信じるのは、困難であった。「これらの報告書は、大いに信頼に値するべきものと感じられた」と、セシル・W・ニスト大佐は、1946年5月1-15日付の、ワシントンの最上層部のみの目に触れることを意図した、そのG-2情報報告書において、興南について、そう結論付けている。
3 ウィルコックスが調査し解明した情報の要点
川島虎次郎将軍によれば、東条英機首相は1943年頃、仁科の計画に対する全面的支援を表明している。日本の科学者たちが、軍や政府から支援を受けていなかったとする見方は誤っている。
1945年5月までに、理研(理化学研究所)の仁科芳雄を中心とする二号計画は中止された。しかし、日本海軍は、ミッドウェーの敗北以降、原爆開発を目指すF号計画を本格化させ、陸軍の二号計画中止後、その遺産を継承し密かに核開発を続けた。
特に戦艦大和級の戦闘艦艇2隻の建造を中止し、その鉄鋼や銅、予算をF号計画に投入したのではないかとみている。それでなければ、日本国内での鉄鋼、銅などの不足が説明できない。
日本の戦時中の統治地域、特に北朝鮮には豊富な電力とウラン鉱石があった。
北朝鮮の水力発電量は350万キロワット、マンハッタン計画の倍以上の発電力があり、その中心地の興南の日窒(日本窒素肥料株式会社)では、豊富な電力を使いジェット燃料を製造していた。
興南の工場内には、警備の厳重な施設が一角にあり、高電圧のアーク放電による重水の製造などが行われていた。
満州最大の海城のウラニウム鉱山は、1938年に南満州鉄道の地質学者により発見され、10マイル以上にわたる二つの鉱脈が走っていた。
1944年11月からウランの採掘が始まった。ウランの抽出量は年間5トンから20トン程度だった。
戦時中日本は、特に朝鮮北部と満州でのウラン鉱の探査を最新の方法を使い行っていた。野口遵が創設した日窒は北朝鮮からモナズ石574トンを採掘精製し理研へ送っていた。
理研のソウルの精製施設には、ウランを含むフェルグソン石3トンが1945年7月には備蓄されていた。
日本の科学者、技術者の水準も高く、かなりの技術水準に達していた。一部では米国以上の水準に達していた。
荒勝は湯川秀樹を高く評価しており、湯川は臨界量決定の決め手となる、1個の中性子が核分裂した際の中性子の発生数を研究していた。湯川の功績が後のノーベル賞受賞につながった。
仁科は臨界量について、当時としてはかなり高度の計算を行っている。その点はドイツよりも進んでいた。
戦争末期には京都帝大の荒勝文策は、海軍の資金提供を受け、遠心分離機の設計を完了していた。遠心分離機の面では米国よりも進んでいた。
終戦直後の占領軍の調査により、日本国内の研究機関や大学にサイクロトロン以外にも核開発に関連した多くの設備があり、ウラン鉱石なども備蓄されていたことが、確認された。それが、1945年11月のGHQによる突然の日本のサイクロトロン破壊の主な理由だったとみられる。
日本は本土決戦用として陸海軍がそれぞれ4千~5千機の特攻機を準備し、核爆弾の使用も計画していた。
しかし、日本の核計画はソ連、中国にその情報を知られていた。
スターリンは、ローゼンバーグ夫妻などを使いマンハッタン計画を諜報していたが、米国よりもソ連に近い、日本の核開発についても諜報活動を行っていた。日本の科学者の一部にはソ連に協力的な者もいた。
朝鮮戦争中に、米軍と中共軍が激戦を繰り広げた長津貯水湖から海岸の興南に至る間の山中のコト・リというところで、米軍と韓国軍により、巨大な洞窟内の地下武器工場が確認されている。そこには日本製の機械類が据えられていた。
興南の山中の巨大な工場施設は、オークリッジの放射性同位体の熱拡散分離工場と「極めてよく似た」形状や機能を備えていることが、航空写真の画像分析から判明した。
その施設には、熱拡散分離工場に特徴的な、形状や水利施設、高圧線による豊富な電力供給、鉄道の引き込み線、3重の警備用フェンスなどが確認された。
日本の核計画の遺産の奪取とその活用なしには、ソ連があれほど早く1949年に核実験に成功したとは考えられない。スターリンは原爆開発を指令し、日独の科学者を拿捕し、ソ連の原爆開発に従事させた。
1945年8月にソ連は興南の核施設を破壊前に急襲して核関連設備などを根こそぎ略奪してソ連に送り、科学者と技術者を拉致した。
ソ連軍は長崎への原爆投下直後に、対日侵略を開始したが、その最大の目標は、興南の日本の核施設の奪取だった可能性がある。
ソ連は日本人科学者の協力も得て、戦後も興南で核関連の作業を継続していた。1947年6月の米軍の秘密報告によれば、興南でソ連人と、日本のNZ計画という新兵器開発計画に関与していた田村という日本人科学者が、秘密施設で高電圧アークを使い活動していた。生産物は潜水艦でソ連に定期的に輸送されていた。
蒋介石は1946年秋までに、瀋陽に原子爆弾作業のために一群の日本人科学者を集めていた。
朝鮮戦争参戦時に中国軍は、興南と咸興を目標にしていた。それが、両市に電力を供給していた長津貯水湖で中共軍が奇襲攻撃した主な理由だった。
内戦後間もない中共が朝鮮戦争参戦を決意した大きな理由の一つとして、興南の日本の核施設の奪取があった。中共は当時すでに核開発を決心していた。
現在の北朝鮮の核開発のインフラは、日本の遺産であり、中心となった核物理学者も日本統治下で日本の帝大などで育成された。
まとめ
日本の戦前戦中の核開発努力と能力は再評価されるべきであろう。特に仁科、荒勝、彦坂などの核物理学者と野口遵など産業界は卓越した貢献をした。
日本の科学者、学会は、国内では戦時協力者として非難され、占領軍に戦犯として逮捕されることを恐れたとみられるが、核協力の過去を隠ぺいしようとした。
しかし科学技術者が戦時に協力するのは当然のことであり、むしろ他国では誇るべきこととされている(なお、ウィルコックスも同じ見解を示唆している)。
激しい空襲と物資の欠乏する中、これだけの研究開発努力を続け、実績を上げた日本の科学者、技術者、産業界は再評価されるべきである。特に、彦坂の黒鉛減速型原子炉が稼働していれば、短期間にPu-239を抽出可能し核爆弾の燃料にできたであろう。荒勝の遠心分離機の開発は米国に先行していた。
NPT(核兵器不拡散条約)によれば、核兵器の保持を許される「核兵器国」は「1967年1月1日の時点で既に核兵器を保有している国」と規定されている。1945年8月12日に核実験に成功していれば、日本は核兵器国としての資格を持つ。
ソ連も中国も戦時中から核開発を知り、早くからそれを欲していた。蒋介石も同様だった。
北朝鮮の潜在力も過小評価できない。経済封鎖の下でも核開発ができることを日本は実証した。
米国は核不拡散の立場からも日本の事例を研究すべきだと認識している。日本の潜在力を封印するのが、日本の核開発を秘密にしてきた理由の一つであろう。
いま米政府の秘密が解除されるのは、日本の核開発黙認のシグナルかもしれない。
1990年代以降の中朝の核戦力増強により、2006年頃には米国の核戦力バランスの圧倒的優位が失われたとの認識が表れている。
例えば2006年の全米科学者連盟と米国国家資源防衛会議による共同報告では、中国が対米先制核攻撃に成功すれば、米国の被害は4千万人に上り、それに対する米国の核報復による中国の被害は2,600万人にとどまるとの被害見積りが公表されている。
同年には北朝鮮による初の核実験が行われた。その頃から、元政府内部の機密文書分析担当官のトルバやライダーによる、米政府内部の日本の核開発に関する秘密文書の、ウィルコックスなど部外者への公開が始まっている。
対中朝核戦争で勝利できる見通しが薄れるにともない、核の傘の信頼性は低下した。日本に対し核の傘の提供を保証することは、米国の望まない対中朝核戦争に米国が巻き込まれるおそれを高めることになった。
そのリスクを回避するには、体制と価値観を共有する日本の核保有を黙認し、独自の核抑止力を持たせ中朝に対する対日侵攻への抑止力を強化するのが、米国の国益上有利と、米国指導層は2006年頃に判断したのではないかとみられる。
日本の第二次大戦中の核開発努力が再認識され、日本の潜在能力が正当に評価されるようになれば、今後、日本の自立的な核抑止力が強化され、日本の国力、特に威信、防衛力と外交交渉力が高まるだけではなく、東アジア全般の安定と平和にもつながるであろう。
併せて、台湾と韓国の潜在的な核開発・配備能力を容認し、実質的な日韓台の核抑止トライアングルを形成すれば、中国の西太平洋への侵出や台湾海峡危機、尖閣危機、南北朝鮮の軍事衝突を抑止でき、中朝ロによる核恫喝に屈するおそれも減り、外交的政治的にも危機時の死活的国益の擁護につながると思われる。
米国にとっても、日韓台に対し米国との信頼関係に基づき、独自の核抑止力、少なくとも即時に機能させうる潜在的核抑止能力を認めることは、米国の国益にとり不利なことではない。
そうすることにより、中朝ロに対する独自の核抑止力が高まり、日韓台がこれらの諸国による核恫喝に耐えることができるようになる。また、日韓台の核抑止力と米国の核抑止力のリンケージが確実に保証されることから、核の傘の信頼性も維持されるであろう。
東アジアにおける核抑止態勢は、従来の米国による単独抑止から、多国間抑止に移行するべき時に来ていると言えよう。
日本は、大戦末期から現在に至るまで高度の潜在的な核能力を持ち、かつ唯一の被爆国であり、域内で中国に対抗しうる大国として枢要な立場にある。日本は、東アジアの核抑止態勢の中心的担い手となり、域内のみならず世界全体の安定と平和に積極的役割を果たすことができる能力と責任を有している。
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